女神の聖杯(10.9.23〜公開。短編読みきり)
月が支配する真夜中の頃。
静まり返った暗い神殿の中に一つの杯があった。
まるで夜空に光る紅の星のような色をした至宝。
「あれが女神の聖杯か」
上から下まで明らかに盗賊だと言い切る格好をした二人組がその宝に近付いた。片方がずんぐりした体型でもう片方が細い。親分と子分だと予想されて、恐らくあだ名は凸凹コンビ。
盗賊二人組は警備の少ない神殿に疑問も抱かずに侵入して、堂々と飾られる宝を見つめる。親分が嬉しそうにする中、子分は「罠ではないか」と周りを見回した。
「本物なんすかねぇ? なんか簡単過ぎて怪しいというか……。なんで宝の前に警備が誰も居ないんすかねぇ?」
「大丈夫だって! さぼってんじゃねーのか?」
親分は、自分の長所は楽天的な所だとよく子分に自慢している。
目の前の『女神の聖杯』というその宝は、戦いの女神が戦場に行く際に仲間と交わした杯だという伝説があり、情熱的な赤に彩られている。ご立派な祭壇の上に置かれていて、手の届く位置に立つには、左右にあるどちらかの階段を上らなければならなかった。
「でも、でも、なんか嫌な予感がするんすよねぇ」
子分は心配したが、親分はなんの躊躇も無く左側の階段を上ろうとする。その時――
どこからともなく「にしだーーーーー!!」というおたけびが聞こえた。
「な、なんなんすか!?」
驚き、すくみあがる子分。
親分もびっくりして止まっていると、自分らが入ってきた入口から、警備隊員らしき沢山の人間が一斉に入ってきて取り囲んできた。皆が既に剣を構えている。
「うわぁ! お前ら、いつの間に!」
自分らが二人であるのに対して、連中は数十人居る。逃げる間も無かった。
紺色の制服を着た隊員達の中から隊長らしき一人の青年が前に出て言い放つ。
「西側は我がサンダリア国警備隊の管轄。残念だったな」
「西? 管轄?」
意味が分からない。
盗賊達が混乱していると隊長は「捕らえろ!」と命令をして、警備隊員が向かってきた。
わけが分からない。けれども分かったことが一つある。
「やっぱり罠だったんすよーーー!!」
盗賊子分の叫びは神殿の中心で空しく響くだけだった。
その声を神殿の外で聞きながら、動きたくとも動けずにイライラして待つだけの、別の警備隊が居た。フレイア国警備隊――同じく『女神の聖杯』を守る任務に就く隊だが、神殿の東側担当であった。
サンダリア国側……つまり西側から実行しようとする盗賊には手出しが出来ない。逆に向こうもこちら側の盗賊に手出だしが出来ないのがここでの昔からの決まり事であった。
隣接するサンダリアとフレイアの二国は非常に仲が良く友好条約を結び、『友情の証』として、一つの宝を両国の警備隊で守る程だった。しかし、現場の警備隊同士は非常に不仲で絶対に国境を越えてはいけない、という掟がいつからか出来ていた。
協力して守れと言われている『女神の聖杯』だが、お互い一切の手出しを許さず、盗賊が西側から盗むならサンダリア国、東側からならフレイアと、手柄を奪い合う現状。
ここ最近はサンダリア側ばかりなので、フレイア国警備隊の若過ぎる隊長テリィは憤りを感じていた。
「ちっくしょー! なんで盗賊共は向こう側から行くんだよ!」
数十人居る隊員達も同じく。皆で溜め息をつく。
やがて、盗賊を見事に捕まえて意気揚々と出てくるサンダリア国警備隊の連中が、こちら側を見ては聞こえるように言ってきた。
「今回もオレらの手柄だぜ、ざまーみろ!」
「フレイア共、指くわえて見ていろよ」
恒例のことだが、不快感を覚えながら言い返せずに黙っていると、サンダリア国警備隊隊長のカアルがテリィの前までやってきた。
十六歳のカアルはサンダリアの貴族らしく、かなり偉そうで。それでいてクールな青い瞳に金髪で美形というかなり嫌味な奴だった。
いつも通り見下した目でこちらを一瞥してほくそ笑みながら言う。
「見学、ご苦労。盗賊は我ら『サンダリア国警備隊』が捕まえた。お前らは無能……いや、無用だから帰っていいぞ」
そう言って去っていくカアルに危うく殴りかかりそうになる隊員を押さえ付けて、テリィ自身も怒りを抑えながら、暗くて見えない国境を越えないように気をつけた。それはいつからか地面に描かれた国境の線。見た目は胡散臭いが、決して消えることの無い見えない壁だった。
詰所に戻ったフレイア国警備隊。夜勤の交代以外の隊員は部屋に戻って休む。
テリィも個室に戻って扉を閉めてから「はぁ」と溜め息をついた。
隊長になったばかり。まだ慣れないのと手柄が欲しくて気が焦っているのも事実。
焦っても仕方無いのに……と自己嫌悪に陥る。
テリィは弱冠十三歳で隊長になった最年少記録の保持者である。けれど、これはあまり名誉には思えない。恐らくサンダリア側の隊長が若いカアルになったが為の対抗手段で選ばれた。向こうは貴族だ。こちらは元隊長の子供ゆえの半ばお飾り。実力が認められたからではない。
だからこそ、実績が欲しくてテリィは焦っていた。認められたいし、なめられたくない。その為にはサンダリア側よりも圧倒的に手柄を取って称賛を浴びることが近道で唯一の道。
そして、誰よりも父親に認めてもらいたかった。いつまでも子供扱いするふざけた父親。妙に過保護な父親。凄く強くて人望もあった父親に。
炎を思わせる赤い壁を見ながら、テリィはでかいベッドに横たわった。そして装備していた短い双剣をベルトごと外して掲げる。
(カアルに負けたくない)
十代から三十代前半までが所属するこの警備隊で、同じく若くして同時期に隊長になったカアル。けれど自分とは違い、さすがは貴族か指導力がある気がする。
次こそ盗賊が東側に来てくれれば、向こうよりも早く捕まえてやるのに。双剣を置き、茶色い髪を掻きあげてテリィは目を閉じた。
(アイツはオレのこと、どうせガキだと思ってんだろうな)
カアルの見下した目を思い出すと悔しい気分になる。しばらくの間、テリィは意識を集中して無心になろうと無駄な努力を続けた。
だが、現実は甘くなく。
以後連敗で数日が過ぎた。
「ま、こういう時もあるさ」
落ち込む隊員達の前にやってきたのは元隊長のダーフィトだ。茶色い髪に茶色い瞳、口髭を生やした体格の良い男――要するにテリィの父親だ。引退した今でもたまに様子を見に来ることが習慣であり、上からも要請されていることであった。つまりは……
(また監視か)
皆がダーフィトに駆け寄る中、テリィは嫌な気分になって離れた場所に行った。
砂漠の多いサンダリア国と山の多いフレイア国は、大きな山脈と河が二国を分ける国境にあたる。ただ、女神の聖杯のある神殿の近くは草原で、周りには小さな森とかつての古都の遺跡がある。神殿自体も古びていて、ちょうど国境の真ん中に建てられていた。神殿のすぐ西側にはサンダリア国警備隊の詰所が、東側にはフレイア国警備隊の詰所があった。
テリィは一人で神殿に来ていた。見張りの者とも離れて、外壁の彫刻を見ながら石段に座る。ここは最近父親から逃げ出す時によく来る場所で、風の心地好いお気に入りの場所でもあった。
今日も青い空が広がり、白い雲が風の流れを教えてくれる。
空を見ている時は嫌なことも忘れて落ち着いていられる。
「アナタ、どうしたの? さぼっているの?」
ふと、可愛らしい女の子の声が後ろから聞こえた。
びっくりして振り返ると、可愛いらしい声が似合う可愛い女の子が立っていた。金髪で青い瞳で、長い髪を上で結んで垂らしている。年齢は自分より一、二歳上な雰囲気だ。ヒラヒラしたレースのついたドレスを着ていて、お嬢様風にも見える。
「別にさぼりじゃないよ」
テリィが答えると女の子はじっとこちらを見つめてくる。
「緑の制服ってことはフレイア国の警備隊員よねぇ。なんか凄いな〜!」
「凄いって何が?」
「警備隊員ってことが」
女の子は顔を近付けると「ふふっ」と笑った。
警備隊は誰でも入れるわけではない。ちゃんと試験があって合格した者で、その後訓練を受けて残った者が入ることが出来る。
テリィは幼い頃より父親に特訓を受けていたからこそ剣術の腕があり、若くして隊に所属出来ている。
「別に凄くないよ」と言いながらテリィは、一般の女の子がどうしてこの神殿に居るのか疑問に思った。
「君は誰? どうしてここに居るんだ?」
女の子は意地悪そうに指をさす。
「人に物を尋ねる時はまず自分の名前から言うのが礼儀よ」
「ああ、そうか」とテリィは自己紹介をした。
「オレはフレイア国警備隊の隊長なんだ、これでも。名前は……」
テリィが言う前に女の子の方が声を上げた。
「もしかしてテリィ?」
「え?」
何故知っているのか。慌てるテリィの手を女の子は掴んできた。
「テリィってアナタのことなの? 私ね、フレイア国警備隊隊長のテリィって子を一目でいいから見たいと思って! こっそりここに来たのよ」
「オレを?」
「うん、お兄ちゃんに聞いて! 十三歳なんてどんな子だろう? って思ってたんだ」
気になる単語が出た。
「お兄ちゃん?」
テリィが訊くと女の子はコソコソと答えた。
「あ、うん。私ね、サンダリア国の……」
「ディアナ!」
そこに現れたのは――カアルだった。
ディアナと呼ばれた女の子はぎくりとして後ろを振り向いた。
「お兄ちゃん」
その言葉にテリィは驚いたが、よく見るとディアナはカアルと少し似ているような。同じ髪色に同じ瞳の色。確かに兄妹かもしれないと思える。――ということは
(カアルが、オレのことをディアナに?)
何て話していたのかが気になる。どうせ悪口に決まっている。年下のくせに生意気だ、とか。一般庶民のくせに生意気だ、とか。フレイア国警備隊は生意気だ、とか。要するに生意気だ、とか。
(あーーーむかつく!)
被害妄想かもしれないが、テリィは腹が立った。ついカアルを睨み付けてしまう。それが彼に火をつけてしまった。
「お前は……テリィ? 何故お前がディアナと一緒に居るんだ」
カアルは国境を越えない程度に距離を置いて話しかけてくる。ただ、眉をひそめて何かを勘違いしている模様。
「ディアナ! こっちに戻ってこい。そこはフレイア国だ」
「何よ、警備隊だけの変な決まり、私にまで押し付けないでよ」
ブツブツと言いながらカアルの元へ行くディアナは、振り向いてテリィにウィンクをした。それが兄に火をつけてしまった。
「テリィ!! 貴様に決闘を申し付ける!!」
「え?」
さすが貴族様の言うことは違う。
一体どこからこの流れに急行したのか。とにかく分かることは唯一つ。
(こいつ、シスコンじゃねーか!)
テリィの予想は恐らく正解。そしてテリィとディアナのことを誤解している事も証明するようにカアルは言い放つ。
「お前が勝ったらディアナはくれてやる。だが、俺が勝ったら二度とディアナに近付くな!」
「は、はあ?」
どうしてそうなる! とのテリィのつっこみよりも先にディアナがカアルに殴りかかった。
「何言ってんだテメーーー!」
その怒りの鉄拳は見事カアルの顔面に炸裂。
「話飛躍し過ぎなんだよ! 大体、私は物じゃねーんだよ! 何勘違いしてんだコラ」
次々に繰り出されるディアナの必殺拳に、なす術も無く打たれっ放しのカアルの整った顔は、見るも無残な形に変貌。あまりの惨い姿にテリィは思わず止めに入った。
「ちょ……! 待って! 死んじゃう!!」
それでも豹変したままのディアナにむしろ惚れそうになったが、腕を押さえて無理矢理止めた。
「ディアナ! いいから! オレもカアルと闘ってみたい」
彼女を賭けるかどうかは置いといて、決闘はいい機会かもしれない。フレイア国警備隊の仲間の為、自分の名誉と誇りの為、カアルと勝負して勝てば皆が認めてくれる。テリィは血だらけのカアルに向かって言った。
「受けて立つよ。軽々しく言ったの、後悔しな」
高級そうなハンケチーフで顔の血を拭きながら、カアルは見下ろした。
「お前如きに負ける訳が無かろう」
血まみれのくせに偉そうだ。
――というわけで。天気・気温は上々。
絶好の決闘日和に、両警備隊員達が沸く。ちょうど国境上、神殿の裏にある合同演習場に見張り以外の全員が集まり、盛り上がっていた。『合同』という名の下に今まで放置されていただけあって、地面には雑草が生えまくっていて、密林のようになっている所さえある。
そこの、比較的草の生えていない広い場所で隊長同士の決闘が始まる。ついに因縁の決着がつくとばかりに二人を遠くで囲む隊員達。
サンダリア国警備隊の副長・ハンスは、準備をするカアルを引き止める。
「カアル様、決闘なんておやめください!」
だがカアルは聞く耳を持たない。
「口出し無用だ、ハンス副長」
他の隊員達は皆賛成で、「力を見せ付けてくれ」と応援する。
その様子にハンスは溜め息をついた。
一方。
似たような事がフレイア国警備隊の方でも行われていた。
溜め息をつくのはダーフィトだけで他の連中は「力を見せ付けてくれ」と応援する。
そして、どちらの隊員でもなく腸が煮えくり返っているのはディアナで、兄の勘違い暴走さに呆れながら拳の指をボキボキと鳴らしていた。これが終わったら……もしもテリィに大怪我を負わせたら馬鹿兄の骨をボキボキにするつもりで。
いよいよ大声援の中、皆が囲む輪の真ん中に立つカアルとテリィ。お互いに少し距離を保ちながら向かい合って適当な位置に着く。
頃合いを見てカアルが挑発してきた。
「いつでも来るがいい」
腰にさげた長剣は構えずに手だけを添えて、いつでも抜けるようにしている。
テリィも双剣は抜かずに背中に装備して、手を腰に置いていた。
「そうやって余裕ぶっていられんのも今の内だよ」
言った瞬間にカアルの目の前から姿を消すテリィ。
次の瞬間にはカアルの懐にその姿があった。
(速っ……!!)
一気に間合いを詰めたテリィの双剣がカアルを襲う。慌てて避けたのだが――
距離を取ったカアルの服に斜め十字の切り込みが入った。
「なーんだ」
ニヤッと笑うのはテリィ。
「大したことねーじゃん」
明らかに貶していて、誇りが山よりも高い貴族様の逆鱗に触れた。
しかも観戦しているフレイア国警備隊の隊員も大喜び。
「少々甘く見過ぎたようだ」
カアルはようやく剣を抜いて構えた。そしてまさに、前にテリィが予想していた言葉そのものを投げつけてきた。
「お前、年下のくせに生意気だな。しかも一般庶民のくせに生意気だ。というかそもそもフレイア国警備隊は生意気だ。まぁ要するに生意気だ」
被害妄想ではなかった。抜かり無く正解。
しかしカアルは口だけでなく、剣を中段に構えたと同時に向かってきて、激しく精確に剣を振る。慌ててテリィは双剣で受けるが、洗練された無駄のない剣術に圧されてしまう。……これが貴族の剣か。防戦ばかりになり、攻め入る隙が無い。
サンダリア国警備隊側は大歓声を上げた。
(ちっくしょーー)
少し離れてテリィは間合いを取った。
速さなら自分も負けるはずがない。けれど、長剣の力には勝てない。長さのせいで中々踏み込めない。
考える間も無くカアルがまた向かってきた。必死で受けて避けるテリィ。たまに服をかすって切られる。
フレイア側の隊員はその度に大きな反応をして食い入るように見ていた。親馬鹿のダーフィトもぐっと堪えて見る。
一方、心配そうに祈りながら見つめるのはディアナ。
(お兄ちゃん、それ以上はやめて!)
やはりテリィの方を応援していた。
何回も攻防戦を続けた二人。どちらかというとカアルの方が優勢。けれど二人共所々に斬られて血を流していた為に、互いに疲れが出るようになっていた。
恐らくそろそろ決着がつくと思われる。
ここで勝負か。両方共同じことを考えていて同時に駆け出した。若干素早さはテリィの方が上だが、力はカアルの方が上だ。テリィはとにかく夢中でカアルに打ち込み、カアルも剣を突き、振り下ろす。
その迫力に、双方の警備隊員が静まり返って観ていた。
二人は血を流し過ぎて息を切らしてしまう。
恐らく次で決まる。
――そう思った矢先に、二人同時に膝を落としてそのまま倒れてしまった。
「あれ……?」
その状況に、観戦している警備隊員達は皆呆然とする。もうずっと前から気力だけで闘っていたが為に力尽きたのだった。
少し経ってディアナが声を出した。
「……引き分け?」
―――――
微かに聞こえる人々の声でカアルは目を覚ました。
目の前には可愛い妹・ディアナの姿がある。
「良かった。目が覚めた?」
話しかけられて上体を起こすカアル。ここはどこだろうか?
「合同演習場の救護室だよ」
答えをディアナが言った。清潔そうな部屋に、医療器具、自分が寝ているのは白い布団のベッド。確かに救護室だ。近くに看護師らしき人物らも数名居る。その看護師達は自分に駆け寄り「大丈夫ですか」と声をかけてきた。
他に見舞いは居ない。隊員達は持ち場に戻ったか。いつも通りだ。
「カアル様、大丈夫ですか!!」
副長のハンスが部屋に入ってきて駆け寄ってきた。いつも冷静な彼が珍しく取り乱している。ハンスはサンダリア国警備隊の古株で、三十歳の金髪の男だった。真面目で厳格な雰囲気が漂っているが、皆のまとめ役であり、カアルのことを理解してくれる唯一の人物でもあった。
貴族であるカアルには隊員はどことなく一歩引いていて、カアル自身も人を寄せ付けない癖がある。仲間の誰一人、カアルを名前で呼ばないのに、ハンスだけはカアルを「隊長」ではなく名前で呼んでくれていた。それに、持ち場に戻るという決まりを破って見舞いに来てくれる。
「問題無い、ハンス。お前は副長なんだから、皆に指示をして持ち場に戻れ」
つい、カアルは冷たく言ってしまうが、本当はハンスの行動を嬉しくも感じていた。
「は、はい! すみません」
頭を下げてから去っていくハンス。
どうしてこうなるのか。だから自分は誰にも慕われていない。決闘でも勝てずに倒れてしまったし。「はぁ」と溜め息をつくカアルにディアナが言った。
「大丈夫、引き分けよ」
「情けない。自分よりも年下の相手に」
「そんなこと無いわよ!」
静かな部屋に廊下からの騒がしい声が入ってくる。合同演習場の救護室だからか、隣の部屋にはフレイア国のテリィが居るらしい。廊下に居るのはフレイア国の警備隊員で、皆テリィの見舞いに来ている連中だ。隊長といえどもテリィが若いからか、やけに過保護な気もするがそれだけ隊員に慕われている証。
「強いわね、あの子」
ディアナも言うようにテリィの強さを認めざるを得ない。悔しいが。
カアルの複雑そうな顔を見てディアナが呆れたように目蓋を落とした。
「お兄ちゃんが私に言ったんでしょ! フレイア国警備隊のテリィは十三歳なのに隊長で凄いって」
「まぁ……言ったがな」
そう、カアルは最初からテリィのことを悪く思っていなかった。それでも口下手が災いしていつも嫌味を言ってしまうし、目を細める癖があるから睨んでいるように思われてしまうし、おまけに可愛い妹を取られてしまうという錯覚であんなことを言ってしまった。
その結果がこれだ。カアルはまた溜め息をついて眠ることにした。最近は全く休んでいなかった気がするから、いい機会だ。
やがて、夜になり。
一方のテリィは仲間が全員詰所や持ち場に戻った事でやっと一人になることが出来た。今は看護師もうるさい父親も居ない。今晩は、仕事は禁止で念の為この救護室で休めとのこと。久しぶりに本当に一人になったようで、テリィは解放された気分で伸びをした。
思えば詰所の個室で一人になっても、神殿の石段で一人になっても、常に隊長という重荷を背負っていた気がする。この気持ちが分かるのはもしかしてカアルだけなのではないか。ふと、そんな風に思っていた。
改めて思うが、勝負をしてみてやはりカアルは強かった。偉そうな口だけではない。努力をしている剣だ。
その時――扉を叩く音が聞こえてテリィは返事をした。
「はい、どうぞ。入っていいよ」
普通に看護師だと思っていた。だが、躊躇いながら扉を開けたのはカアルだった。
「うわぁ!!」
まさか、ありえないことでびっくりしたテリィはうっかり布団を被ってしまった。一方カアルもその反応に戸惑って一度扉を閉める。
「す、すまん。何かまずかったか?」
明らかに動揺して扉越しに話しかけてきた。
「あーーー」
ここに国境の線は無い。何か用があるならカアルも入ってくるか。……そんなばかな。
とりあえず制服の上着を羽織るテリィ。
「えっと、何か用か? 別に入っていいぞ」
「ああ」
少し間を空けてもう一度扉を開けて入ってくるカアル。相変わらず目つきは悪いが、文句を言いに来たわけでは無さそうだ。ただ、中々口を開かない。気まずい雰囲気に耐えられなくなってテリィの方が話しかけた。
「今日はどうも」
「……ああ」
薄い反応。めげずにテリィは続ける。
「いや、なんつーか。やっぱ強いんだな。正直びっくりした。いや、馬鹿にしていたわけじゃなくてさ。でも……さすが隊長っていうか」
「それはこっちのセリフだ」
まさか、あの、カアルが嫌味以外のセリフを言うとは思わなくて、調子が狂うテリィ。だがこれはまだ序の口で、素直過ぎて気味の悪い言葉を耳にする。
「ただ、『隊長』とは言ってもお前とは違うぞ、俺は。貴族というだけで隊長に選ばれた。実力を認められたからじゃない」
それはまさに自分が悩んでいることと同じ。テリィは思わず身を乗り出した。
「オレだって! 元隊長の子供だから選ばれただけで、実力を認められたからじゃないんだ」
「本当か!?」
顔を見合わせる二人。
(あれ? こいつってこんなに……)
なんだかカアルを誤解していた、と気付くテリィ。別に普通に話せる。というかむしろ……気が合うかもしれない。
「でもカアルってさ、若いけど指導力あるし、隊長に向いていると思うんだけど」
「まさかっ! 隊長に向いているのは副長のハンスの方だ」
まさか、奴がこんなに謙虚なことを言うなんて。信じられない気持ちでテリィは喋る。
「そんなこと無い、お前は十分強いよ」
「なめられるが嫌でな、必死に特訓したんだ」
同じく! と共感するテリィ。
カアルは自分と同じ境遇だった。妙に嬉しくなる。自分もなめられるのが嫌で必死に特訓した、と。
「けれどやはり強くなるだけでは何かが足りないんだ。テリィのように仲間に慕われないと」
まるで奇跡のようなカアルの褒め言葉に慌てて首を振るテリィ。
「オレは、心配はされるけど、慕われてなんかないよ! 皆にとってオレはまだ子供で」
あまり自分では言いたくなかったこと。
「隊長だとは思われてないんだ。その証拠に、元隊長が居る時は、オレはいつも一人だ」
だからいつも神殿に逃げていた。
「誰もオレに近付こうとしない」
それは自分のことだ、とカアルは思う。テリィは少し笑って思い出すように言った。
「ディアナだけだな、一人で居るオレに近付いてきたのは」
言った瞬間にシスコン野郎が怒るかと思い、慌てて口をつぐんだが、カアルは真面目な顔で口を開いた。
「その事で、お前に言うことがあったからここに来たんだ」
「え?」
次は何を言う気だ? そもそもディアナとの事をカアルは勘違いしている。テリィがそう思った矢先――
「カアル様!!」
廊下に響くハンスの声。
何事か、と急いで廊下に出るカアル。
廊下に居たハンスは、テリィの部屋から出てきたカアルにびっくりしたが、それよりも、とカアルに訴えてきた。
「ディアナ様はここに来ていませんか?」
「え? ディアナは詰所の俺の部屋に帰ったはずだが?」
ディアナはカアルが怪我をした為に心配で家に帰らず、付き人と共にカアルの個室を借りて休むことになっていた。
それを聞いてハンスは危機迫った表情に変わった。
「居ないんです! てっきりここに居るのかと思っていたので。では、詰所の入口で発見したこの紙はまさか本当に……」
ハンスが取り出した紙にはこう書いてある。
『女は預かった。返してほしくば、夜が明けるまでに「女神の聖杯」を持って南の遺跡にやってこい。但し一人でだ。それが守れない場合、もしくは夜が明けた場合、女の命は無い』
「なっ!」
紙を読んだカアルは夢中で駆け出していた。
自分がこんな所に居たのが悪かった。いや、そもそも怪我をしたからディアナは帰らずに……。決闘なんてくだらないことをしなければ良かった。幾ら後悔しても足りない。
いや、後悔よりも大事なことがある。
サンダリア国警備隊の詰所に戻ったカアルに隊員達が駆け寄ってきた。皆にディアナの話が伝わっていたようだ。口々に心配する声を上げて集まってくる。
「隊長、助けにいきましょう!」
皆の心は一つだ。ディアナは隊員達全員から好かれていた。ディアナの付き人達は泣きながら謝ってくる。
カアルは皆に言った。
「要求は一人だ。俺が行く」
心配して止める者も居たが、カアルの決意は固く、今すぐにでも行きたい様子。ハンスが皆を宥めて後押ししてくれた。
「後の事は任せて下さい。カアル様がディアナ様を無事に連れ戻してくれることを信じています。ただ、くれぐれも気をつけて」
頼りになるハンスに心の中で礼を言うカアル。
問題は『女神の聖杯』を持ち出すにはフレイア側にも許可が要るということ。例え人質との交渉といえども絶対に盗られてはいけない代物だ。そこに、
「ディアナがさらわれたって本当か!?」
救護室を抜け出してこっそりとついてきたテリィが現れた。
当然ざわめく隊員達。フレイア側の人間がこの詰所に居ることが前代未聞で。
「お前はフレイアの隊長! 国境を越えたのか!! 何故ここに居る!?」
ここでの決まりを破ったことに大騒ぎになる。
それをカアルが静まらせた。
「くだらん!! 失礼だぞ!!」
しかも、テリィに謝った。
「すまない」
「それって、女神の聖杯のこと? それとも今のこと?」
「両方だ」
「……いいよ」
この二人のやりとりに、皆が呆気に取られる。所々で「和解が成立したのか?」と声が飛び交った。だがとにかく、フレイア側からも了承を得たので女神の聖杯を持ち出すことが決定した。
そして――夜も大分更けた頃。
神殿より南にある真っ暗な遺跡に、赤く光る宝を持った一人の男が姿を現した。それは女神の聖杯を手に持ったカアルで、周りには誰も居ない。
古都の廃墟に隠れていた盗賊達は人質の娘と共に警戒しながらやってくる。盗賊は体格の良い男が三人で、娘はディアナ。ディアナは手を後ろで縛られて口も布で塞がれている。今にも泣きそうな妹を見て、カアルは叫んだ。
「ディアナ!!」
そしてすぐに訴える。
「ディアナを放せ!」
「おっと! 女神の聖杯が先だぜ」
言われて了解するカアル。
「ここに置く」と女神の聖杯を地面に置いた。
「よし、確かめるからお前は離れろ! それから、武器は置け」
盗賊はカアルに命令をする。ディアナさえ戻ってくれば隙を見て絶対に女神の聖杯を奪い返す気でいるカアルは、長剣も地面に置いた。とりあえず今だけは大人しく言うことを聞いてやる、と青筋を立てながら。
ところが、女神の聖杯が本物であると確認した盗賊達はディアナを解放せずに、カアルに精神的な動揺を与えることを言う。
「約束を破ってすまねぇが、これは後ろに居る奴との取引でな」
振り返って後ろを見ると、そこに現れたのは……ハンスだった。
そして、わざとらしいタイミングで外されるディアナの口布。
「私をさらったのは、そいつなのよ! 盗賊と手を組んでいたのよ!」
それは、信じたくない証言で。
泣きながら叫ぶディアナの視線の先に居るのもハンスだった。
「ハンス……」
動揺を隠せないカアルに呼ばれたハンスは冷たい顔をしている。
「何故だ」
信じられない。信じたくない。
彼だけは自分のことを名前で呼んでくれた唯一の……
「ガキのくせに隊長ぶってんじゃねぇ」
ハンスの言葉はカアルの心を打ち砕いた。冷たい表情が一瞬で嘲笑う顔に変わる。
「てめーを『貴族』と思って敬語は使っていたが、一度たりとも『隊長』とは思ってねーよ。カアルさま!」
全てが分かる言葉、全てが壊れる言葉。信じていたものが一変する、残酷な言葉だった。いや、言葉よりも眼が全てを物語っていた。
呆然とするカアルに盗賊の言葉が響く。
「というわけだ。てめーには死んでもらうぜ。女はおれたちのものだ」
「そんなことはさせない!」
言ったのはカアルでなく、物陰に潜んでいた――テリィだった。
「カアルは殺させないし、ディアナを渡す気も無い。それから、女神の聖杯も返してもらう!」
テリィが居たことはカアルも気付いていなかった。
「テリィ!!」
驚いたのはその場に居た全員。テリィはニヤッと笑った。
「悪いけど、気付かれずに尾行するの得意なんだよね。お前ら覚悟しろよ」
「なんだと!? てめー、動いたらこの女が……」
盗賊の一人がそう言って短剣をディアナの首に突きつけた時には、テリィは双剣を抜いて盗賊達の後ろに居た。そして、暗闇に紛れて次々と盗賊を斬る。
気付いたらディアナを抱きしめていて、盗賊二人がその場に倒れた。
「い、いつの間に」
慌てたのはハンスと残り一人の盗賊。その隙で長剣を拾ったカアルにテリィは叫んだ。
「今だ! 迷うな!」
恐らく、カアルには苛酷な判断かもしれない。
迷ったら絶対に人は斬れない。信用していた部下なら尚更。
けれど、仲間を裏切った罪は重い。
カアルはハンスの剣を避けて、渾身の力で彼を斬った。今まで振ったどの剣よりも重く感じる。
一方、最後の一人の盗賊はどさくさに紛れて逃げ出そうとしたが、ちょうど縄を切ったディアナが回り込んで怒りの鉄拳でぶっ倒した。
全員倒れてからテリィは女神の聖杯を回収して、ディアナは「恐かった」とカアルに抱きついた。
そして、神殿へ宝を戻しに行く。
真夜中過ぎた神殿には沢山の明かりが灯っていてまるで昼間のように明るくなっていた。
サンダリアとフレイアの両方の警備隊員が集まり、両隊長を待つ。線で描かれた国境は無視されて皆が行き交い、心配し合う。
やがて、様子を見に行った者達と一緒に戻ってきた三人に皆が駆け寄り、声をかける。副長の真実も暴かれてサンダリア国警備隊は皆ショックで落ち込んだ。だが、何人かはハンスが前々から怪しかったとの証言もする。確証が無かったので言えなかった、と。
「それより、平気ですか? 見せてくれ!」
サンダリア側の隊員の一人がカアルに駆け寄った。
カアルはテリィから女神の聖杯を受け取って見せる。
「ああ、大丈夫だ。女神の聖杯は無事だ」
「そうじゃねぇ! カアル隊長、怪我人だったでしょう? 腕とか悪化してないか見せて下さいよ」
普通に名前で呼ばれて戸惑うカアル。自分が皆に距離を取っていただけだったのか。隊員達は更にカアルにとって驚くことを喋っていた。
「さっきは副長に邪魔されて見舞いにも行けなかったもんな」
「なー」
頷き合う隊員達と戸惑っているカアルを見てテリィは自分まで嬉しくなった。
(良かったな)
そんなテリィにカアルは救護室で言えなかったことを話す。
「テリィ、お前ディアナに惚れたか?」
「え?」
「もしそうだったら俺はお前なら……」
「ちょっと待った!」
顔を赤くして止めるテリィ。
「いや、確かにオレはディアナのこと……好きだけど。そうじゃなくて」
「お兄ちゃん、何度言ったら分かるの? 勘違いしているって!」
そこにディアナが入ってきた。
「そもそもテリィは女の子だよ」
(……おんな?)
いまいち理解が出来ないカアル。
いや、確かにテリィは背も低いし声も低くはないけれど。それは十三歳だからであって。髪は短いし、自分のことを「オレ」と言っているし、そもそも警備隊に入って……
いや、確かに顔は可愛いといえば可愛いかもしれないが。
(女?)
改めてよく見ると……確かに、可愛い。
「な! なんで! 隠していた!?」
焦って言うカアルに、反論するテリィ。
「別に隠してねーよ!」
言葉遣いは男だが、照れている様は確かに女の子のようだ。更に追打ちをかけるディアナ。
「っていうか、気付いてなかったの、多分お兄ちゃんだけだよ」
むしろそちらにびっくりだ。
「えええ!? そうなのか?」
失礼にも取り乱すカアルの姿にディアナは呆れ返った。
カアル当人は今までの所業が思い出されて酷く自己嫌悪と恥ずかしさに囚われていた。てっきりディアナのことを好きなのだと思っていたから決闘をしたわけだし、服も切ってテリィは焦っただろうか? 寝ていた所に部屋に入ってしまったし。あの時は何故かテリィが意識して上着を羽織っていたが。あれは……
(いや、しかし肝心の胸が無い)
確認の為よく見てみるが、胸の膨らみらしきものは見当たらなかった。
そういう分類かまだ十三歳だからか。
「す、すまない!!」
今思ったことも含めてテリィに謝るカアル。
「お前……いや、キミに、色々と……」
あまりの気味の悪さに青ざめるディアナと怯えるテリィ。慌ててテリィは言った。
「急に態度変えんな!」
「いや、そうではなくて。うちの隊員から裏切り者を出してしまって」
副長ハンスのこと。彼も最初は純粋に警備隊に入っていたに違いない。しかし人の心は変わる。余計な対抗心で若い者を隊長にした悔しさからか、それとも金に目が眩んだか。真相は分からない。
「ああ、その事」
テリィにはカアルの心の痛みが分かる。信頼していた仲間に裏切られたことは何よりも悲しいし悔しい。それでも、微笑んで言った。
「いいよ、別に。これから協力し合えばいいじゃん」
「賛成ーーー!!」
なんと、サンダリア国警備隊とフレイア国警備隊は同時に賛成をした。反対の者は居なく、喜んで肩を組み合っている。一体何が彼らをそうしたのか、真相はすぐに分かった。
「結成会するぞ!」
「結成会?」
テリィ達三人が疑問に思うと、隊員達はそれぞれハチマキや同じ文字が記された揃いの上着を羽織り始める。そこにはこう書いてあった。
『テリィちゃん・ディアナさん、親衛隊同盟』
「いつの間にか変な同盟組んでんじゃねーー!」
怒り出すテリィにフレイアの隊員数名が近付いた。
「なんか、今日の決闘でサンダリアの連中がテリィ隊長に惚れたみたいで。オレ達もサンダリアの方に居たディアナさん見て一目惚れしちゃったし。それで親衛隊作ろうって意見が一致して」
「……なんなんだよそれ」
テリィは頭を押さえたが、隊員は興奮さながらに叫ぶ。
「テリィ隊長! 好きだーー!」
そこに現れたテリィの父親・元隊長のダーフィトが連中をボッコボコにぶん殴り、蹴りを入れて戦闘不能にさせた。そして目を光らせる。
「うちの可愛い娘に近付くんじゃねぇ」
前に「元隊長が居る時は、自分には仲間が近付こうとしない」とテリィが言っていたことを思い出すカアル。
(これは、「近付こうとしない」ではなくて「近付けない」の間違いでは?)
そう思っているカアルも例外ではなく、親父が凄い剣幕でこちらに近付いてきた。
「お前も、うちの娘に手を出したら承知しねーぞ?」
「え?」
威嚇されて正直少し怖気付きそうになる。
すかさずディアナがテリィに訊き出した。
「ねぇ、本名はテリィじゃないんでしょ? なんて名前なの?」
『テリィ』はあだ名でちゃんとした女らしい名前がある。恥ずかしそうにテリィは答えた。
「テレーゼ。似合わないだろ」
確かに、という言葉を呑み込んでカアルは首を振った。
「そんなこと無い!」
それはまさしく、ダーフィトによって、死への秒読みが開始された瞬間だった。
一方、警備隊兼親衛隊の連中は親睦を深める会に突入していて、神聖なる神殿で乾杯し合い、テリィとディアナに対して絶対の抜け駆けは許さない条約を結んでいた。
――こうして、友情の証・女神の聖杯を取り戻した警備隊同士は、以後協力し合って盗賊を捕まえるようになる。
どうもありがとうございました!
どうもありがとうございましたm(__)m