創作した小説が世界の神話になっていた頃
[第二部・第四十二話:幸せに満ちた儚い夢]
さっきまでの寒さが嘘のように暖かくなったショーンは、いつか見た白い砂浜の上をぼんやりと歩いていた。
いつか……?
ああ、そうだ。もう三十三、四年くらい前だろうか。
遠い記憶のような、つい昨日のような。
彼女と行った旅行で。
青というより緑色に見える海がずっと広がっていた。
ただ、あの時はでかく見える太陽に照らされて熱かったような気もするが。
今は心地良い。
(ああ、そうか)
なぜここに居るのかとか、全く気にせずに歩いていたけれど。
ショーンは苦笑いをする。
(“お花畑”じゃねぇ。なるほど)
漠然と、自分がどうなったのか思い出した。
「ああ。喋れる」
独り言を呟き、レオたちに悪かったと感じる。
けれど、心は物凄く穏やかで。
「ショーン」
後ろから愛しい彼女の声が聞こえたので振り向いた。
「純玲さん……?」
「ショー君!」
白い砂浜には、あの頃のままの彼女が立っていた。
少しだけ茶色く染めた黒い髪は肩くらいの長さで。黒く大きな瞳は娘と似ている。優しく微笑む唇に、白く綺麗な肌。
「純玲さん!」
気付くと自分も“あの頃”に若返っていて、彼女に駆け寄り抱き合う。
「純玲さん」
なんて、幸せなのだろう。
ずっと願っていたことが叶って、なんて満たされるのか。
「純玲さん、ずっと会いたかった」
「ショー君……」
「純玲さん……」
つい、何度も名を呼んでしまう。
「純玲さん」
「ん?」
「話したいこといっぱいあるよ、純玲さん」
「……知ってる」
彼女の優しい声は夢で聞くよりも鮮明で、より心地いい。
「ずっと見てたから」
なんて温かいのか。
「純玲さん……ずっとこうしていたい」
「……うん」
ショーンは幸せな気分と温もりを味わい、長い間彼女を抱きしめていた。
*
――その頃。
幻聴なのか本物なのか……
“彼女”の声を聞いた気がした朱音は、居る訳無いと思いつつ周りを見回す。
もしも、彼女が来てくれたらきっと希望であって、レオを正気に戻せるような気がした。
しかし、現実は甘くないのか、姿は見当たらず。
やはり願望からくる幻聴だったのかと落ち込んだ。矢先――
「シリウス!!」
別の女性の声が遠くから聞こえた。
振り向くと、そこに居たのは……
黒髪の褐色肌の女性と茶色い髪の娘であり。
湖族の族長のダリアが、玲菜を護衛しながら連れてくる様子が見えた。
「レオ!!」
なぜここに!? とか、どうしてダリアと!? なんて疑問はどうでもいいと朱音は思った。
「レイナ様!!」
これは奇跡か。
レオのことは少しの間、他の護衛兵に任せて二人に駆け寄る。
「レイナ様!!」
「朱音さん!!」
玲菜は息を切らして朱音に訊ねた。
「レオは……!?」
彼女は状況を分かっているのだろうか? いや、確認する暇は無いと朱音は玲菜の腕を掴む。
「陛下はこちらです!! どうかレイナ様、一緒に来てください!」
本当は危険な目に遭わせてはいけないのに、主《あるじ》を救えるのは彼女しかいないと朱音は悟っていた。だから命に代えても彼女を守り、主の許へ連れて行こうと。
ダリアも察して、護衛のために一緒についていった。
一方、シリウスの剣から発せられる呻《うめ》き声で、近くに居る者の声さえもよく聞こえないレオは、渦巻く怒りや殺意を抑えられずに、一人フラフラと前に進む。
いよいよ親衛隊が出てくるというので、隊長と対峙しようと、フルドが止めるのも聞かずに歩いた。
「フェリクス……」
「陛下! どうか……前に出るのは危険です。バシル将軍も居ますし、ここは任せて……」
「どけ! フルド」
激しく息を切らしながらレオは言う。
「バシルじゃフェリクスを殺せないだろ。あいつは甘いから」
「しかし!」
フルドは、ふらつくレオの足から血が垂れているのに気付いて必死で止める。
「それよりも傷の手当てを!」
「うるせぇ!! へ……」
『平気だ』と言おうとしたレオはまた咳き込み、片膝をつく。
「アルバート様!!」
支えようとするフルドに怒鳴り込んだ。
「触るな!!」
あまりの剣幕にびくりとして止まるフルド。
レオは腕の血管が浮き上がるほど剣を強く握り、寄ってきた者を殺さないように抑えていた。
「俺に近付く……」
しかし、小さく細い手がそっと彼の背中に触れる。
「触るなよ!!」
反射的に振り払ったレオは、その人物の姿に目を疑った。
「……え?」
「レオ……!」
彼女が名前を呼んできても、あまりの驚きに反応できない。
なぜ彼女がここに居るのか。
いや、居るはずがなくて。もしや夢か幻を見ているのだろうか。
呆然としていると、先にフルドの方が名を呼んでしまった。
「レイナ様!?」
その時ついに、黒い軍服に甲冑を着けた親衛隊が出てきて。
フェリクスの号令と共に一気に突撃をしてきた。
「伏せてください!!」
いきなり降り注ぐ大量の矢に朱音は皆に防御を指示する。
ダリアは自分の盾で身を護り、フルドは玲菜を、朱音はレオを守った。
そして少し離れた場所ではバシルが緑龍騎士団を率いてレッドガルム及び彼の団員と共に親衛隊と激突する。
奪還軍や鳳凰城塞軍の他の兵たちも混ざって激闘が始まった。
城内に入って制圧というより、この場所での決戦で勝敗が決まるといった様子。時に間違えて味方も斬り兼ねない乱戦となってしまった。
ただ、親衛隊と緑龍騎士団は互いに組織的に攻防をする。親衛隊の中にはバシル将軍の裏切りにショックを隠せない者も居たが、そこは割り切って敵と戦う。
また、歩廊の上にも侵入させまいと鳳凰城塞兵が次々に突入する。弾の切れた擲弾筒兵団は武器を持って相手と戦った。
内壁内にて天守を目前に、ここですべての決着がつくと誰もが思っていた。
その、激しい交戦の中で。
精神的に憎悪を抑え切れなくなっていたレオはついに、もう一度剣を振ってしまう。
朱音は玲菜が止めてくれるだろうと思っていたが、間に合わなく。
叫び声を上げながら力を解放する。
「バシル!! 退避させろぉおおおお!!」
瞬間的に兵への退避命令をしたバシルとほぼ同時に、叫び声を上げながら振った剣からは黒炎が出て正面に居た兵を敵味方構わず襲ってしまう。
不気味な炎の轟音《ごうおん》と悲鳴が合わさって、まるで地獄絵図のようだった。
「レイナ様!!」
朱音は巻き込まれないよう玲菜を遠くに連れていく。
彼の周りは一瞬で大勢が死に、残るのは恐怖だけ。
しかも今回は退避に遅れた味方も巻き込んでしまったので、恐怖に怯えて逃げ出したのは敵兵だけでなく味方兵も多く居た。
交戦は一時中断されて、バシルやレッドガルム、フェリクスまでも息を呑んで凄惨な光景を見る。
レオの正面は黒く焼け焦げて、真っ黒な地面と焼死体が判別つかなく転がる。
そこに居るすべての者を戦慄させるには十分だった。
恐怖に負けた者たちは叫び声を上げて這ってでも逃げる。場はまさに阿鼻叫喚《あびきょうかん》と化した。
その中で、一人近付く人物が居た。
それは茶色い髪の娘。
こんな所になぜ一般人の女性が!? と驚く者も居たが、逃げ惑う兵と呆然とする兵たちで混乱して、誰一人彼女に近寄る者は居なかった。
「レオ!!」
「レイナ様!! お待ちください」
最初、玲菜に止めてもらおうと思っていた朱音は逆に彼女を止めようとする。
やはり、恐ろしすぎると痛感して。
恋人だから止められるとか、そんな浅はかな考えで彼女を危険な目に遭わせるわけにいかない。
だが、玲菜は止まらなかった。
「レオ!! その剣使っちゃ駄目!! 約束したじゃない!」
「れ……」
レオは玲菜の名を呼ぼうとしたが、呼吸が整わなくて喋れない。
汗も滝のように流れて体は震え続けた。
「レオ! お願い」
「うぅう……」
駄目だ。『近寄るな』の言葉さえも出ない。
彼にとっての恐怖は、間違って最愛の彼女を傷つけてしまうこと。
「お……おまえ……ああっ……」
「レオ? どうしたの? 苦しいの?」
本当は、背中の痛みが尋常じゃなくて意識を失いそうではあった。
「お、俺……」
レオはなんとか言葉が喋れるくらいには呼吸を整えようとする。
「俺……から、離れ……」
「レオ……!」
だが突然、彼が放そうとしない剣を持つ手を掴む玲菜。
「大丈夫だから、手を離して!」
「やめろ!!」
「レオ!!」
「うっ!!」
玲菜でさえも斬りそうになる腕をもう片方の手で押さえたレオは「あああああ!!」と絶叫に似た大声を上げながら地面に剣を突き刺す。
「うううぅううう!!」
刺してもまだ唸《うな》り声を上げていたが。
次の瞬間にようやく剣と手が離れて、彼は両膝を地面に落とした。
「レオ!」
自分の腕にしがみ付いていた彼女を改めて見て、名を呼ぼうと口を開いたが――そのまま、意識を失って倒れてしまった。
「レオ!!」
必死に玲菜が呼びかけても、目を開けることはなく。
「陛下!!」
「アルバート様!!」
続いてフルドや朱音が駆け寄った。
他のその場に居た敵味方全兵が、戦闘を中断したままで呆然とする。
ただ、フェリクスの近くに居た鳳凰城塞兵が、敵軍総隊長が倒れたのを見て親衛隊長に促した。
「敵の大将が倒れたようです。一気に攻撃をしましょう! 今なら大将首を獲れる!」
しかしフェリクスは「待て!」と首を振った。
レオの様子に混乱していたが、落ち着いて命令を出さねばならない。
呆然としている兵たちに指示を出した。
「ボーッとするな! 敵が止まっている今が好機! 総攻撃を続けよ!」
また始まった敵軍の攻撃に、皆と同じく呆然としていたバシルは慌てて指揮をとる。レオのことは心配だが、味方兵に応戦を命令した。
そして……
戦いの音が聞こえる中、玲菜は倒れたレオの手を掴んで涙を流した。
「レオ……どうして……」
どうして彼はこんなに血塗れになってしまったのか。
あんなに苦しそうに剣を握って、別人のような形相をしていたのか。
それよりも朱音は、レオの息を確認すると、急いで玲菜に促す。
「ここは危険です! レイナ様、安全な場所へ!!」
「え?」
確かに、乱戦が再開されてかなり危険ではある。
「でも、レオは?」
「シリウスはあたしが運ぶよ!」
そこに、女性でもかなり腕っぷしの強いダリアが名乗り出た。
「ええっ! しかし陛下の体重は八十(キロ)近く、甲冑も合わせるとおよそ百……」
慌てるフルドに彼女は「平気だよ!」と余裕げに笑った。
「ただ、あんま速くは走れないと思うけど」
見た目ですでに筋肉があるのだが、思った以上に力が強いとフルドは怯えそうになった。
その彼にダリアは言う。
「アンタ! そんな見た目でも剣の腕はあるんだろう? 護衛を頼むよ」
そんな見た目とは失礼だったが、フルドは頷いた。
「は、はい」
フルドの他にも護衛の忍び兵は居て、それぞれ位置に就く。先導するのは朱音だった。
「皆、私についてきてください。陛下とレイナ様を安全な場所に移動させます。なるべく敵と戦わず護衛に徹するようお願いいたします!」
言った後に走り出してダリアはレオを抱えながら続いた。玲菜も必死についていき、フルドや護衛の忍びは警戒して走る。
たまに矢等の攻撃がきたが、うまく回避や応戦して。
やがて崩れた内壁から外郭にまで出て行った。
その時――
玲菜の目に、心臓が止まりそうな光景が入ってきた。
黒焦げや血塗れの死体の山には当然目を伏せてしまったが……
それよりも。
静かに倒れる、見覚えのある人物。
「ショ……」
無我夢中で玲菜は駆け寄った。
「ショーン!!」
無残な姿の父親に。
「あああ……」
けれど、傷の手当てもされていたし、表情はなんて安らかなのか。
玲菜は崩れるように座り込み、なぜレオがあんな風になってしまったのか悟った。
同時に自分も深い悲しみに落ちた。
「うううっ……」
涙はとめどなく落ちていく。
こんなことなら、本人に言っておけばよかった。
「お父さん」
後悔しか残らない。
「お父さん……! お父さん……!」
呼べば起きるなんて、そんな奇跡はないのに、玲菜は夢中で父を呼び続けた。
「お父さん!! ……うぅうっ……うぅううぅ……」
涙も震える泣き声も止まりそうもない。
*
そんな娘の状態を知らずに、幸せな気分に浸っていたショーンは、靄がかる世界であの頃の妻と抱き合っていたが。
突然、彼女が自分を離してきた。
「純玲さん?」
「ごめんね、ショー君」
「え?」
彼女は言う。
「もう行かなきゃ」
「え?」
行かなきゃとは一体……
「あの世?」
今居る場所が、死後の世界(?)なのかと思っていたが、他にもあるのかとショーンは訊ねる。
彼女は首を振った。
「ううん。この世!」
「え?」
彼女は微笑んでいる。
「ショー君、忘れちゃ駄目だよ。私たちには大事な娘が居るんだから」
そう、彼女が言った瞬間、若かったショーンの姿はどんどん老けていった。
「それと、レオ君っていう息子も!」
ついに五十三歳《いま》の姿になって止まり、ショーンは目を閉じた。
……微かに、娘の泣く声が聴こえる。
「ああ」
ショーンの目からは涙がこぼれていた。
「そうだ……そうだな」
幸せな夢の時間は終わり、また彼女と会えなくなることを悟ったから。
「泣かないで……」
純玲は、ショーンの頬に手を触れさせた。
「泣かないで。ショーン」
そっと優しく涙を拭く。
「私は貴方の傍に居る。だから泣かないで」
いつか、夢で聞いたことがある言葉。
「私はとても幸せだったの。貴方に愛されて、貴方を愛して。玲菜を産んで。……家族三人で暮らしてとても幸せだった」
段々と、彼女は透けていく。
「私が居なくなってからも、大事に玲菜を育ててくれてありがとう」
堪らずにショーンは彼女の名を呼んだ。
「純玲さん!」
けれど彼女にはもう聞こえていないよう。
「私は知っているのよ、玲菜が今幸せなこと。レオ君のことも。……なんでか分かる?」
そして、ショーンが見たのは、彼女が白い猫に変わる姿だった。
「え?」
よく知っている、白い猫だ。
似ていると思って、彼女の誕生月の名を付けた。
「ウヅキ……?」
ただ、彼女の声が響く。
「傍でいつも見ているから知っているのよ」
だから、哀しまないで。ショーン――
*
「……お父さん……」
泣きじゃくる娘の声が聞こえて、ショーンは目を開けた。
短いけれど、無限の幸せに満ちた夢を見た記憶は残る。
あまりに切なくて儚い夢。
ただ、胸は温かく。
彼女と自分の大事な娘を泣き止ませなければと感じる。
「玲菜……」
「お父……え!?」
目を開けて、自分の名を呼んだ父に、玲菜はしばらく止まる。
あまりにも信じられなくて。
呆然として。
ダリアが叫んだ。
「ショーン!! 生き返ったのかい!?」
「ショ……ああ、ショ……」
フルドは驚きすぎて半分錯乱状態。幽霊でも見たような顔をしている。
それもそのはず、ショーンは次の瞬間には自分で体を起こして平然としていた。
(そんな馬鹿な!)
さすがの朱音も驚愕して「失礼します」とショーンに当てた包帯をめくる。……あったはずの傷が、ほとんど塞がっている事実に、ただ、ただ、唖然とした。
(どういうことなの!?)
こんなこと、『奇跡』では説明がつかない。
ふと、レオが剣を地面に突き刺して出した黒いおぞましい光に、ショーンが包まれたことを思い出した。
思い出した途端に身震いをする。
ほぼ死した状態の人間が無事だったことを本当は喜ぶべきなのに、漠然とした恐怖に襲われて。
現に、その術(?)を施したレオはただでは済んでいない。
多分『呪い』だと、彼は言った。
そして彼の願いは叶った。
取り返しのつかない犠牲と引き換えに。
(アルバート様……)
朱音は拳を握って、レオが身を犠牲にしてでも助けたかったショーンに訴えた。
「ショーン様!! 陛下が……!!」
「ああ」
なぜだろうか。ショーンは夢の中で幸せな気分に浸っていたのと同時に、現実に起きていた事もどこかで見ていて。状況がなんとなく解る。
「分かってる」
今のこの状態をどうすればいいのか短い時間で考えた。
そして答えを出す。
「一度、軍を退却させる」
ここまで来て、あともう少しで、なぜそれが最善の策になるのか……皆にはしばし理解ができなかった。