創作した小説が世界の神話になっていた頃


 

[第二部・第六十四話:女神の転生]

 

 そもそも『シドゥリ』というのは、この世界の旧神話(玲菜の小説に代わる前の神話)に出てくる名で、そこでは時空の神・アヌーの力を操れる女性として登場する。

 玲菜の書いた小説……新しい神話では時空の神自体が存在しなく、当然シドゥリ(もしくは代わりのキャラクター)は登場しない、失われた名であった。

 ただ、神話が代わっても、アヌーの腕輪を受け継ぐ巫女の一族は存在が消える訳もなく、旧神話の頃の『シドゥリ』という名だけが彼女たちの間で残った。

 アヌーの腕輪を受け継いだ娘は預言者・シドゥリと呼ばれた。

 

 アルテミスの前に『シドゥリ』だったのは、彼女の姉で、ショーンは本名を知らなかった。

 本名は『タチアーナ』だったのだろうか。ただ、タチアーナはシドゥリと正反対の見た目をしている。

 アルテミスの姉は、髪の長さこそタチアーナと近いが直毛で、色も金に近い茶色。体型は分からないけれど、白いローブをまとっていた。大人しそうで淑女《しゅくじょ》風。それに眼は、アルテミスと同じく包帯を巻いていた。

(全然違うのに、なぜ俺はシドゥリだと思ったんだ?)

 目の前にいる赤い髪の巨乳美女を見てショーンは思う。

 先日、もっと似ている人物を見かけた。あの時もシドゥリだと感じた。けれど、確認はできなかった。

 

 日も暮れて真っ暗な鳳凰城塞《ほうおうじょうさい》の中庭で、偶然会ったタチアーナに、たった今訊ねたばかり。

 なぜかは分からない。似ていないのにどうしてもそう感じるから。

『キミはシドゥリなのか?』と。

 

 彼女は『そうよ』と言った。

 

「本当はお久しぶりだけど、この姿では初めてね、ショーンさん」

 

 

「この姿?」

 まさか変身でもするのか? いや、それよりも……

「シドゥリは死んだはず?」

 自分の知っている過去では、アルテミスの姉は殺されたはずだった。

「もしかして、過去が変わったのか?」

 神話が『玲菜の書いた小説』に代わったことで微妙に変化した世界。実際に見たことはないが、運命が変わってしまった人間もいるかもしれない。

「いいえ。そうではないわ」

 タチアーナはため息をつく。

 

 

「シドゥリと呼ばれていた女の本名はタチアーナ。彼女は死んだわ。私は……イナンナなの」

 

 

 ――それは、ショーンだけが知る、失われた女神の名。

 

 

「は!?

 

 当然の反応をしたショーン。

「旧神話の、創世の女神と同じ名前?」

「同じ名前というか、そうね……」

 イナンナと名乗ったタチアーナは言葉を選んでいるようにも見える。

「私が創世の女神のもととなった人物だと思うわ。創世はしてないけど」

「はあ!?

 理解できないショーンに、タチアーナはもう一度ゆっくりと告げる。

「私は、女神なのよ」

 

 

 今度は反応が無くて、言い換えた。

「ああ、えっと、こう言えばいいかしら? タチアーナは、私たちの生まれ変わりなの」

 

 

 

 女神の生まれ変わりという単語だけでもうさんくさいのに、複数形ときた。

 まずはそこをショーンは訊ねた。

「私たち?」

 

「私とシドゥリちゃんよ。私たち双子だから、一緒になっちゃって」

 

「ちょっと待ってくれ」

 ショーンは頭を押さえた。

「頭が追いつかない」

「いくら貴方でも、すぐには理解できないわよねぇ」

 フフッと笑う目の前の女性に手を向ける。

「イナンナとシドゥリが双子なのは知ってる。なんかの文献で読んだ。前世界か前々世界の」

 多分『前々世界』だと、ショーンは思い出す。

 自分がずっと昔から研究していた方の旧世界・“精霊の世界”だと。

 若い頃、旧世界(前世界)に時空移動する前はずっと勉強していた。調べるのが楽しくて。

 “東京時代”にタイムスリップした時だって、本やインターネットで調べた。

(タイムスリップって言葉は、向こうで覚えた言葉だけどな)

 ともあれ、自分が興味本位で調べていた前々世界の伝説や神話で、イナンナやシドゥリの名は登場していた。

 それに、前世界の神話でも。

(創世の女神の名前が、旧世界の神話でも登場してたから、びっくりしたよな)

 ちなみに、今は創世の女神の名は代わって『アルテミス』となっている。神話の作者の玲菜いわく、「カッコイイから月の女神から借りて付けた」だけで深い意味は無いらしい。

 

 改めて思い出すショーン。

(いろんな説があったよなぁ。同一視とか、名前が違うのもあったし、イナンナは名前を変えていっぱい出てきたけど、シドゥリは出ないものも多かった)

 どちらかというと、シドゥリの方は前々世界関係の本によく登場していた気がする。

 いずれにしても、本人が双子だというならその説が正しかったのだろう。

「え? 本人?」

 重要なことにようやく気付いた。

「え? 生まれ変わり?」

 いわゆる輪廻転生《りんねてんせい》の実証なのか。それよりも。

 

「え!? 女神が実在!?

 

 信じられないことばかりで混乱する。

 

「神って人間に転生するのか? っていうか、なんかゲームみたいだな」

 タチアーナは死んだと言った。

 自分はイナンナだと。

 では、今、タチアーナの前世の女神が代わりに生きていて喋っているということなのか。

(死んでんのに前世?)

 意味が分からない。

 

 

「待って。順を追って話す」

 タチアーナはふぅと息をついて近くにあった石段に座った。

「どこから話そうかしら」

 彼女の隣にショーンも腰掛ける。

「まず、キミの正体から頼むよ。否定しないでちゃんと信じるからさ、イナンナ」

「呼び捨てじゃなくて『様』って付けてほしいけど、まぁいいわ」

 そう言って、タチアーナ……いや、イナンナは夜空を見上げた。

 

「さっき女神って言ったけど、普通の人間にそう呼ばれただけで、本当はア=ヒトなのよ」

 

「アヒト? ……ああ、亜人(ア=ヒト)か」

 ショーンにも知識があるが、信じられない話。頷《うなず》いておきながらもう一度問う。

「え? 亜人《ア=ヒト》!? 伝説の?」

 前々世界――つまり、精霊の世界に伝承で残るヒト。人間と似た人間ではない種族。前世界でも伝説は残り、いわゆるおとぎ話に出てくるような巨人や妖精、半獣等の、人と異なるヒト種族。

 空想の産物と思われがちだが、精霊の世界についての文献を読むと、実在したように感じられる。だから玲菜やレオにも教えたことがあったが……

 いざ、「私は亜人《ア=ヒト》よ」と言われると耳を疑う。

 

「良かった。さすが賢者ね。説明する手間が省けたわ」

 イナンナはショーンが知っているものと判断して続きを話した。

「つまり、『神』に造られた人間で、ついでに『神の石』の番人」

 

『神』というのは恐らく機械か何か。

 そして、『神の石』というのは、ショーンの知識では『アヌーの腕輪』もそれに含む。

 アルテミスの一族は、神の石《アヌー》の腕輪を大昔から受け継いでずっと守ってきていた。彼女の姉――タチアーナももちろんそうだ。番人だから、“そういう一族”の娘に転生した……というのなら一応納得できる。不思議さは置いといて。

 

 考えは当たったらしく、イナンナは似たようなことを話した。

「私ね、長生きする呪いをかけられていたんだけど、神の石の力が弱まって、ようやく眠りに就けたの」

 対象物の番をする必要が無くなったから任を解かれた、みたいなものか。

「でも、アーヌーだけ力が少し戻ったから、石を守っている人間に生まれ変わってしまったのよ」

 アーヌーとは多分、アヌーのこと。

 

 亜人《ア=ヒト》だったイナンナは、神の石の番人ゆえか、長い間生きていた。もしかするとそれが原因で女神的扱いとなり、神話にも登場するのかもしれない。

 さておき、番をするべき石の力の減少により、彼女はようやく眠りに就けたようだ。

 しかし、『力』が少し復活した為に、守る一族の人間に転生してしまった、と。

「それがタチアーナ?」

 アルテミスの姉で、彼女の前に預言者・シドゥリと呼ばれていたタチアーナ。ショーンが訊ねると本人《イナンナ》は頷く。

「そうよ。ただ、タチアーナは封印術士だったのよ」

「封印術?」

 そういえば、アルテミスもそうだ。というか、巫女の一族は本来『封印術』を受け継いで守ってきた一族。だからこそ『体が朽《く》ちる呪い』を最小限に抑えてアヌーの腕輪を扱えた。

 封印術も持っていない普通の人間だと、一度腕輪の『力』を使うだけで体が朽ちて死んでしまう。というか、填めるだけで呪いにかかる。……ユナのように。

 

 アヌーの腕輪は、封印術を受け継いだ娘にしか填めさせることはできない。そして、封印術こそが“死ぬことによって引き継がれる力”。

「私はね、タチアーナとして生まれ変わって、しばらくは前世の記憶も無く過ごしていたんだけど、ある日、封印術を受け継いだ時に思い出したのよ」

 

 ――自分がイナンナだったことを、と彼女は話す。

 

 ただ、思い出した瞬間に戻るはずだった『亜人《ア=ヒト》の力』は、封印術の力で封じられてしまったのだという。

 

「亜人《ア=ヒト》の力?」

 なんとなく、魔術的な想像をするショーン。

 あながち間違いではなかったらしく、イナンナは「ふふっ」と笑う。

「貴方たちが想像する……“魔法”みたいな?」

「凄いな! 魔女じゃねーか! 是非とも奪還軍に入ってもらいたい!」

 つい勧誘する軍師には呆《あき》れた目で返す。

「何言ってるのよ。これだから軍人は嫌い」

「女性は……特に綺麗な女性は優遇するぞ! レオやフェリクスにも淑女には特別扱いしろと言っておくし、全力で守らせるから!」

 嫌いと言っているのにこの態度。

 一瞬その気になりかけたイナンナは睨みつけた。

「私を甘く見ないでよ! ショーンさんったら、『シドゥリ』だった頃には『綺麗』とか一回も言わなかったくせに。もう! あの頃に言ってほしかったわ」

「え? でも、キミが『シドゥリ』だった頃はどんな見た目か分からなかったし」

 眼は包帯を巻いて、ローブで身を包んでいた。そもそも、あの頃と今の見た目は全く違う。

(別人なんだよな〜、どう見ても)

 ショーンの疑問の答えは次のセリフで分かる。

「とにかく! 私が『力』を取り戻したのは私(タチアーナ)が死んだ後! 私は昔《イナンナ》の姿で甦《よみがえ》ったのよ」

 

「え?」

 

 まさか蘇《よみがえ》ったなんて、そんな非現実なこと、あるはずない。

 

 ――そう思ったショーンは、そういえば自分もレオの剣の力で『生き返った人間』ではないかと思う。なぜか今まであまり考えないようにしてきたが。

(え? 俺ってそうなのか?)

 蘇生《そせい》の術は、大昔の文献にもよく出てくる。今も、たとえば不死身になる魔術とか怪しげな集団が研究している場合も。但し、大昔も今も成功例を確認できず。大抵は悲惨な失敗が待っていた。

 なんとなく背筋が凍る。

 けれど、実際にレオは呪いを受けていて、解く手がかりを探しに、エドの許《もと》へ行こうとしている。

 考え込んでいるショーンを気にせずにイナンナは続けた。

「多分、アルテミスに封印術を引き継がせたから『力』が戻って、体もイナンナに戻ったの。人間だった時に受けた傷も、呪いで朽ちた眼も治った」

 言い方は、亜人《ア=ヒト》に戻ったように聞こえる。

 

「私はもう、タチアーナではなくなってしまったから、エドにアルテミスを任せてあの森を出た」

 

 ちょうど今、考えていたエドのことだ。あの後エドがアルテミスの許へ行ったのか。

(引き換え俺は、アヌーの結晶石を盗んで砂漠へ向かった)

 浅はかに、戦を終わらせようとして。

「エドは、キミの知り合い? っていうか、亜人《ア=ヒト》なのか?」

 

「……どうかしらね」

 イナンナは立ち上がる。

「貴方が私に気付くなんてびっくりした。見た目が全然違うのに」

 しかも、あの頃と歳がほとんど変わっていないように見える。

「同時に嬉しかったわ」

 彼女は女神のように微笑む。

「この世界で、唯一の知り合い。昔の私を知って……憶えている人」

 かつての世界が変わる前の同じ時代を知っているのも、もしかするとショーン一人かもしれない。

「本物の亜人《ア=ヒト》と知り合いだなんて、光栄だよ俺は」

 大昔の伝説のヒト種族。生まれ変わりというが、体も力も戻ったというなら本人……ではあるのか。

「当時の人々がキミを女神と呼んだのも頷ける。魔術がどうとかじゃなくて、こんな美人がいたら呼びたくなる」

 おじさんの無意識な口説き文句に頭を押さえるイナンナ。

「あり得ないほどいい男だったのに、歳取っちゃって残念だわ、ショーンさん」

「え?」

 この世界でショーンは本来、四十歳くらいだったはず。

「仕方ねーだろ。向こうで二十五年くらい過ごしたんだし。それに、歳取ったっていい男はいい男だろ?」

「私は若い方がいいのよ!」

「マリーノエラかキミは!」

 そういえば、マリーノエラと似ている気がする。

 基本的に彼女らは自分が美人なのを分かっていて、男を見た目で選ぶ。なんとなく、男を手玉にとっているような感じも。

(サーシャもそうだったな。アイツは物っ凄い小悪魔だったし。前皇帝もあれにやられたんだろ)

 レオの母親の若い頃を思い出すショーン。ついでに自分の愛しい妻も。

(でも純玲さんはそんなことない。やっぱ純玲さんが最高だな)

 

 

 しばらく妻との思い出に浸っていると、いつの間にかイナンナの姿が見えなくなっていた。

「あれ?」

 急いで立ち上がり、捜すと遠くの人影から声が聞こえた。

 

「また会いましょう。多分、目的地は同じよ」

 

 声はイナンナの声で、目的地は同じという事は彼女もエドの所へ向かっているのだろうか。

(何のために?)

 そういえば、彼女にまだ訊きそびれたことがあった。

『私たちはタチアーナに生まれ変わった』と、複数形だったこと。しかも、どうやらそれは旧神話のシドゥリのことだったように聞こえた。確か、双子だと言って。

(え? ってことは、シドゥリの人格や姿みたいなのもあるってことか?)

 名だけでなく、本人の。

 いずれにしても今はもう訊けないし、エドの所へ行けばまた会えるかもしれない。

 考え込んでいたショーンは諦めることにして、ふと、大事なことを思い出した。

「あ!! 誕生日!!

 愛娘・玲菜の誕生日。

「あああ!!

 ここへは一服《いっぷく》しようと思って出てきただけだ。偶然にタチアーナを見つけて衝撃的な会話をしてしまったが、戻らないといけない。

 ショーンは急いで、大事なものの方へ戻っていった。

 

 

 ―――――

 

 一方その頃……

 ご馳走を食べ終わった玲菜たちは、自分たちに(新しく)用意された部屋に戻っていた。

 あんなにあった肉料理はほとんどレオが平らげて、結局食事中にショーンは戻ってこなかった。

 心配になったが、とりあえず部屋でくつろいでくれと言われて連れてこられた。

 今はレオと二人きり。というか、用意された部屋が婚約者だからと配慮された二人部屋だった。ショーンは一人で隣の部屋となる。

 

 玲菜は心配して外を眺めた。

「どこ行ったんだろう?」

 まさか……何かあったのではと考えると不安になる。

 ただ、可能性としては『考え事に没頭している』か。

(それならいいんだけど)

 心配する玲菜とは裏腹に、満腹のレオは呑気にベッドで横になった。

「大丈夫だよ、オヤジは。見回りも強化してるから敵の侵入は無いと思うし、多分作戦でも考えてんじゃね?」

「……うん」

 あまり心配し過ぎてもよくないか。玲菜はレオの眠るベッドに行き腰を下ろした。

「誕生日かぁ」

 ここで祝ってもらえるとも思っていなかったし、実感も無くて昔を思い出した。

「誕生日ってケーキって感じするけど、うちではお父さんのアップルパイだったな」

 父の作るアップルパイが好きで、いつも頼んでいた。

 

「あっぷぱい?」

 一方レオは微妙に卑猥《ひわい》な想像をしそうになって首を振る。

 用意できなかった贈り物の代わりに今何かできないかを考えた。

(ええと……)

 うっかり浮かんでしまった、胸を揉んで大きくさせるという案は心の中で却下。

(おっぱ……いや、違う)

 却下だというのに頭から離れない。

(おっ……)

 例えば、何か作るとか?

(子供?)

 駄目だ。もうそちら側にしか考えが働かない。

 自分が誕生日の時、彼女には枕にもなるクッションを貰った。しかし、自分はそんなもの作れないし、精々できて腕枕か。

 

 揉んで子作りして腕枕。

 

(これだ!)

 今までの想像で一連の流れが完成したレオは、実行に移そうと試みる。

 幸い二人部屋で邪魔は来ないはず。

 先ほど邪魔してきたロッサムは、こちらの部屋を知らない。

 今度こそ……!

 

「玲菜」

 レオは彼女の腕を掴《つか》むと、自分の横に寝かせるように引っ張った。

「わっ!」

 隣に倒れるように寝転んだ玲菜は驚いた顔をしつつ、レオが見つめると頬を赤く染める。

 

「さっき言えなかったけど、誕生日おめでとう」

 言われて嬉しそうに微笑んだ。

「うん。ありがとう」

 

「贈り物とか用意できれば良かったんだけどさ」

「ああ、いいよ別に」

 玲菜は改めて隣で横になって体を傾けた。

 恥ずかしくてなかなか言えないことを、勇気出して伝えた。

「一緒にいられるだけで幸せだもん」

 これがもし、戦中等であったら一緒にいられなかった。

「こうやって、大事な日に横で寝られるのも嬉しいし」

 

 そんなことを言われると、下心でいっぱいだったレオの心が熱くなる。

「玲菜……!」

 彼女が愛しくて仕方がなくなった。

「お前が嬉しいなら俺も嬉しい」

 優しく頭を撫でて、髪に口づけをした。

「玲菜」

 髪だけでなく頬にも。

 唇にも。

 

 ただ、首筋に差し掛かる際、お互い同時に嫌な予感がしてきた。

 

 

 残念ながらそれは的中。

 

 

「玲菜! 遅くなって悪かったな!!

 

 前触れも無くドアを開けて入ってきたのは父親。部屋の護衛は玲菜の心配を知っていたので確認せずに通したらしく、例の如く鍵の閉め忘れもあった。

「わああああ!!

 慌てて離れてベッドから降りた玲菜は、先ほどの心配よりも父が片手に持っているものにびっくりした。

「え!? それって!!

 

「玲菜の好きなアップルパイ! 誕生日はこれだよな〜」

 

 一服するために外へ出た時はアップルパイを焼いていた。その後、遅れて戻ってきたので焦げてしまったかと思ったが、厨房の料理人が良い焼き具合で出してくれていた。

「焦げなくて良かったよ! 誕生日おめでとう、玲菜!」

 

 

 邪魔されてムスッとしていたレオは、こんがりと焼けて美味しそうな匂いのアップルパイを見て怒りが吹っ飛ぶ。

 起き上がり、誕生日の主役よりも食いつくように見た。

「え? リンゴの包みケーキ?」

 満腹だったのに、甘い香りが食欲をそそる。卵を塗ったきつね色は目に毒だ。一気に彼の胃は空きを作った。

 

「それとこれも貰ってきた。玲菜は飲めないだろうけど、乾杯しよう!」

 ショーンのもう片方の手で持っていたのは酒であって、やはりこちらも主役よりもレオの方が興奮した。

「やった! 早く飲もうぜ!」

 一体どっちの誕生日だとつっこみたいが、玲菜にとってはアップルパイがやはり嬉しい。

(サプライズって感じ)

 実際に忘れていたので大いに驚いた。晩餐《ばんさん》の御馳走に即席の花束、それに“いつもの”アップルパイ。

 

 

 玲菜は父が今まで誰と話をしていたのか全く知らずに、自分の誕生日の夜を楽しく幸せに過ごした。

 戦が終わったら、父と好きな人とこんな風にいつまでも暮らしていけるといいと思いながら。

 

 

 

 一方。

 砦内のある酒場で、男からの注目を一身に浴びながら気にせずに飲む女性の姿があった。というのは巨乳美女のタチアーナであって、誰かに話すかのように独り言を呟く。

「……まさか、アルテミスの力がショーンさんに引き継がれていたなんて、びっくりだわね」

 本人は自覚がないが、彼がタチアーナのことに気付いたのも証拠である。

 彼女の周りでは、声を掛けようとした男たちの口論が始まるが、彼女には聞こえていないよう。

「でも、だから、闇の蘇生術を受けても体が崩壊しないのよね。しっくりいったわ」

 やがて、男たちの言い争いは拳の闘いに変わる。

 どんどん騒がしくなる酒場で、原因であるタチアーナは物悲しくため息をついた。

 

「レオさんが呪いを解いて助かるにはショーンさんが死ぬしかない、か」

 

 男たちが自分へ声を掛けるために争っているなんて知らないし、それどころではない。

「でも、シドゥリちゃん。そうは言っても、現状仕方ないじゃない」

 彼女はショーンの性格から、『レオの助かる方法』を知ったら、平然と自ら犠牲になりそうだと予感を覚える。

「ああ〜〜〜もう! ありえる!」

 それでなくとも、彼は死への誘惑に弱い。――最愛の妻に会いたくて。

 

 タチアーナはテーブルに「ドンッ」と空のコップを置いた。

「ただ、ショーンさんが犠牲になったら、レオさんは平気でいられなくなるでしょうがっ!」

 また同じことの繰り返しになってしまう。

「馬鹿な男たち」

 彼女は、店内で騒いでいる男たちにも嫌悪を抱いた。

「私、馬鹿な男って嫌いなのよね」

 

 かつて、自分を愛した男が犯した罪を思い出す。

 望んでいないのに、自ら犠牲になったのが赦《ゆる》せない。

 

「おかげで私は、番人になったのよ、アシン。お願いだから、『持ち主』をこれ以上苦しめないでね」

 願わくは、レオが今までの持ち主の二の舞にならないことを祈る。

 それに、ショーンが代わりに犠牲にならないように。玲菜が深い悲しみに落ちないように。

 

 たとえ三人とも、本来死ぬ運命だったとしても……。


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