創作した小説が世界の神話になっていた頃


 

[第二部・第七十二話:すれ違い]

 

 玲菜が最悪な光景を目撃する少し前。

 

 ――レオは秘密の部屋に置いといた『シリウスの剣』を取りに超特急で走っていた。

 秘密の部屋というのは前に自分たちが借りていた部屋であり、グリーン町の多くの町民たちが緑龍城に避難していた頃はバシル一家が使っていた場所。しかし、昨日バシルが「その部屋は今、空いている」という話をしていたので、当然また自分たちが使っていいのだと疑いもしなかった。

 まさか、アヤメがタチアーナたちに貸していたとは思いもよらなく、到着した朝に剣を置いていた。

 

 剣は訓練の時に使うつもりだったから、最初は訓練場を捜したけれど、訓練場に持っていくのを忘れたことを思い出した。

 

 玲菜とどこかで泊まることになり、気分が上昇していてつい全力で走ってしまったレオは、部屋に入った時は汗びっしょり。

 着替えるためにシャツを脱ぎ、そのまま剣を捜す。

 

 そこでふと、ベッドの布団が有り得なく膨らんでいることに気付く。

 誰かいるのか? 気配的には暗殺者ではない。

 ショーンが部屋を間違えて寝ているとか?

 

 実は、寝ていたのはタチアーナで、彼女は不用心にも鍵を閉める習慣が無い。

 日が暮れて夜の姿になった頃、暑いので下着姿になりうっかり寝てしまった。

 だから、上半身裸で布団を剥《は》いだレオとばったり対面。

 二人とも驚き、レオはすぐに後ろを向いた……はずだった。

 

 

 だが、体を見られることにあまり動揺しないタチアーナは、彼の背中の刻印に愕然《がくぜん》とする。もうここまで広がっているのかと、闇の蝕《むしば》みの速さを深刻に思った。

 悠長に構えてはいけないと、彼に忠告しようとして腕を引っ張ったら、予期していなかったらしい彼が体勢を崩す。

 偶然にも覆い被さる形になったところで――

 

 玲菜がドアを開けた。

 

 

 ……現在に至る。

 

 恋人が、上半身裸で、下着姿の女性に覆い被さっていたら――勘違いするなという方が難しい。しかもベッドの上。最悪な状況想像決定打。

 

 玲菜からすれば、「今夜泊まろう」と自分を誘っておきながら、部屋に戻ったら巨乳美女が寝ていて、誘惑に負けてしまった。と、思わざるを得ない。

 彼女は色気のある大人美女で、見たことも無い完璧な体つき。昨日は裸を見てしまったし。彼の男の本能が理性を超えてもおかしくはない。

 

 

 玲菜は足を震わせながら後ろに下がって、レオが言い訳をする前に無言でドアを閉める。

 無意識に廊下を走り出した。

 

「あっ!!

 

 レオは放心状態のまま、慌てて彼女を追いかけた。

 絶対に誤解されたから。

 ……あれはさすがに無理もない。

 でも断じて違う。

「玲菜!!

 無我夢中で廊下に出ると、すでに彼女の姿が見えない。

「玲菜!?

 見回して、見えないながらも辺りを捜し回った。

「待て!! 誤解だから!! 本当に!!

 

 大声を上げながら走っていると、やがて使用人等に見つかって大騒ぎになった。

「陛下! どうなさったのですか?」などと声を掛けられる。

 彼らは皇帝が上半身裸で叫びながら走っていたので、「陛下がご乱心なされた」と心配して集まってきた。

 レオは頭を抱えて、まず使用人たちを静まらせる。「自分は平常心である」と教えて、一度部屋に戻った。

 

「ごめんなさいね〜」と、あまり悪びれていないタチアーナに「なんで俺のベッドで寝ているんだ!」と怒鳴る。

「え? ここは空いたっていうから昨日アヤメさんに借りたのよ?」

 平然とタチアーナが答えると、「そうだったのか」と理解してため息をつき、引き出しに常備してある替えの服を着た。

 そして、目当てだったシリウスの剣を見つけて持って出て行った。

「ちょっと!」

 汗に濡れて脱いだシャツは床に落としたまま。

 タチアーナはだらしなさに呆《あき》れたが、自分も人のことは言えないので目をつむる。

 先ほどと同じく下着姿で、今度は布団を掛けずにベッドに寝転んだ。

「あの剣……私が預かろうかしら」

 シリウスの剣。――昔の名はパンドーリアの剣。

 かつて、自分《イナンナ》の愛した男が造った物。

 

「でないと、もう一度力を解放したらレオさんは死んでしまう」

 背中の刻印の広がりを見るかぎりではそんな感じだ。

「ただでさえ、全身に広がったら死ぬのに」

 何もしなくても徐々に広がり、やがて死に至る呪いは……剣の力の解放によって始まり、力を使うと一気に広がる。何か抑える力があれば別だが。

(青族の血と同等の力があれば、徐々に広がるのだけは止められるけど、どっちにしても力を使ったら意味無いし)

 持っているだけで誘惑されてしまうので、手元に近付けないに限る。

(でも、まぁ、“持ち主”が簡単に引き渡してくれるとは思えないけど)

 そこはレオの意志の強さに期待するか。

「ふぅ」

 タチアーナはいろいろと考えながら眠りに入っていき、もう一人の自分であるシドゥリの声に返事をした。

「……じゃあ、起きたら謝っといてね〜。シドゥリちゃん」

 悪気は無いとはいえ、玲菜の誤解には自分にも原因があるのに他人事である。

 

 

 その、恋人の誤解が解けなくて捜し回っていたレオは、とうとう緑龍城では見つからなくて家に帰ることにする。

 もしかしたら怒って帰ったのかもしれないと予想して暗い夜道を走り、かなり遅い時間に辿り着くと……

 

 

 玲菜は帰っていなく、心配したショーンが晩飯を用意して待っていた。

 ただ、「遅い!」と怒りながら出迎えたショーンも、娘と一緒に帰ってこなかったレオに焦った顔をする。「一体どうしたんだ」と訳を訊ねた。

 

「オヤジ……」

 レオは半分涙目で訳を話した。

「誤解なんだよ……」

「ん?」

 

 ―――――

 

 一通り話を聞いて「なるほど」と納得するショーン。いろいろとレオにも不注意があったと思うが、さすがに同情する。ここまで落ち込んで嘆いているレオを見ると、余程ショックだったのだと分かった。

 その彼は、ショックも空腹には勝てなかったようで、ショーンの用意した晩飯を無我夢中で食べる。

 満腹になると少し落ち着いて、思い当たる節《ふし》を話した。

「あいつ多分、アヤメさんの所に居るんだ」

「え?」

「最初は別の場所に隠れていたのかも」

 レオはようやく冷静に考えた。

「でも、緑龍城捜しても居なくて。ただ――途中でアヤメさんを見かけて訊いた時、なんかちょっと様子がおかしかったから」

 今思えば。

 

 畏《おそ》れ多くも皇帝陛下を、友達の彼氏として見られるのはアヤメかミリアか。あの二人だったら、レオが相手でも友達を売ったりはしない。

 可能性は十分にあり、アヤメの所ならば心配は要らないかと、ショーンも胸を撫で下ろす。

 念の為に朱音に探りを入れさせた。

 

 

 そして、朱音の探りにより、アヤメの所だと判明。一先ずは安心する。

 すぐにでも説得しに行きたいが、今は恐らく無理。

 今夜は大人しく家で眠ることにする。

 明日の朝、緑龍城に行ってもう一度アヤメの許《もと》へ向かい、玲菜に会わせてもらおうと考えた。

 

 

 

 ところが、翌日。

 緑龍城では、レオが行く前に朝のタチアーナが玲菜の許へ向かった。

 彼女も早朝から玲菜を捜して、ついに居場所を特定。

 二人きりにさせてもらい、小部屋で昨日のことを話し始めた。

「昨日は姉が迷惑を掛けて本当にすみません」

 まずは謝罪から。意識がシドゥリである彼女はイナンナの所業を詫びる。

「ですが、私が自分の体に誓って、レオさんとの間に何も無かったと真実を話せます」

 タチアーナは必死で訴えた。

「レオさんがあの体勢になったのは、寝ていた姉が強く引っ張ったからであって……」

 決して彼が気の迷いを起こしたからではない、と。

「そして、姉は下着で寝るのが癖でありまして」

 

 タチアーナは、自分が眠っていた所にいきなり上半身裸のレオが布団を剥いできてびっくりしたが、その後にシリウスの剣を持っていったことと、服を着て出て行ったこと、汗に濡れたシャツを床に置きっ放しだったことで、なんとなく、彼の様子も察しがついていた。

 

「レオさんは恐らく、剣を取りにきたのだと……服を脱いでいたのも、着替えるためだったと思われます」

 

 剣を取りに行ったのは分かる。上半身に何も着ていなかったのは……着替えるためと言われればそうなのかもしれないが、もしも……

 下着姿で寝ている巨乳美女に欲情して脱いでいたらなんて……

 

 玲菜は慌てて首を振った。

(違う! レオを信じなきゃ!)

 そうだ。カルロスがレオに言っていたではないか。『好きなら信じろ』と。

(欲情して脱ぐって何? そんなわけない。タチアーナさんの言う通り、着替えるためだよ)

 彼はよく、脱いでもすぐに着ないでウロウロしていることがある。

(多分そっちで正解だよ。汗でも掻《か》いたのかもしれない)

 

「姉は夜涼しくなった時のために布団を被って寝ていましたので、レオさんは知らずに布団を剥いだのだと」

 ここは重要だ。

「私の記憶ですと、レオさんはすぐに後ろを向いてくれました!」

 つまり見ないように。

 もしも欲情して襲うつもりだったら、こんなことはしないはず。

「ところが、姉が腕を引っ張って、体勢を崩したようにレオさんが倒れ込みました」

 例の場面へ至る。

 

 黙って俯《うつむ》きながら話を聞く玲菜に、タチアーナは慌てて言い訳した。

「あ、あと! 誤解の無いように言っておきますと、姉も決して誘惑しようとして腕を引っ張ったわけではないと思います」

 夜姿のタチアーナはしょっちゅうレオに誘うような言葉を投げるが、本気ではない、と。

「ああ見えて姉は、……姉の心には、一人の男性がずっと居続けています」

「え?」

 少し興味のわく話だったが、タチアーナは首を振った。

「すみません。今、姉に怒られました」

 恐らくイナンナの意識に「喋るな」と声を掛けられたと思われる。

 タチアーナは「うん、うん」と頷《うなず》いて、改めて言った。

「姉は、背中の刻印が気になって腕を引っ張ったと言っております」

「背中の刻印?」

 ドキリとする玲菜。

 前より広がってしまった、蜘蛛《くも》の巣のような痕《あと》。

「言い難いことなのですが」

 深長な面持ちで、タチアーナは口を開いた。

 

「刻印は徐々に広がっていくものであり、全身に広がると彼は魂を取られます」

 要するに死ぬということ。

 そして、広がる速さには個人差があるが、ゆっくりだったものが急に速くなる場合もある。

「明日、一気に広がるかもしれない」

 

「え……?」

 玲菜は愕然として目の前が真っ暗になった気がした。

 

 

 ―――――

 

「え? 明日?」

 参謀での会議が終わって忙《せわ》しく歩いていたショーンは、玲菜に引き止められて聞いた話にびっくりした。彼女が独断でタチアーナたちとバシルの故郷へ行く予定を決めていたので、何事かと問う。

「のんびりしている暇は無いの」

 それが彼女の答えだった。

 玲菜は先ほどタチアーナに聞いた話を教えた。

 呪印が全身に広がるのを一刻も早く抑えないと。

 ショーンは呪いのことを知っていて、決してゆっくりしていたわけではないが、徐々ではなく一気に広がる可能性は確かに恐いと思う。

 当人の自覚が無いだけで、明日かもしれないと言われたら玲菜が焦る気持ちも分かる。

「そうだよな」

 ただ、明日には予定があって、出発は明後日辺りにしてもらおうと思っていたが仕方ないか。

「じゃあ、今から用意して、明日発つ?」

 本当は明日、アスールスへ出軍する隊の出立前夜会があった。

 しかしまぁ、玲菜には関係無いし、レオも行かないのでいいか。

(仲直りのきっかけにしてやろーと思ったけど)

 二人が本日仲直りすれば問題無い。

 幸い、バシルの故郷はここから近いので日数はそんなにかからない。但し、親族に力を借りて国境越えをするなら話は別。

「お前はバシルの故郷で待つだろ? ナトラ・テミスで精霊術士に会うのはあの二人にやってもらおう」

 ショーンは訊ねたが、娘の返事が無い。

「玲菜?」

 俯く娘の顔を窺《うかが》うと、彼女は顔を上げて決心した眼で訴えた。

「待つなんて約束できない」

「え?」

「危ないのは分かるけど、私は行きたい。……ただ、ショーンが止めるのも分かる」

 大事な人を危険な目に遭わせたくない、と。

「本当は私も、ショーンやレオに戦争へ行ってほしくないんだ」

 剣の腕があるから、強い護衛がいるからと、平気なわけはない。命の危険は常にある。

 

「無理はしないから、自分で決めさせて」

 そう言って、意志の強い目で去って行こうとする娘にショーンは声を掛けた。

「だったら……!」

 本当はこんなこと言いたくない。

「朱音さんに、少しでいいから護身術でも教わってくれ」

 国境越えを許可しているみたいだから。

「付け焼き刃になるけどさ。全く知らないよりはマシだし」

 玲菜は振り返ってぱっと顔を明るくした。

「うん! そうする!」

 早速朱音を捜しに走っていく。

 

 後姿を見送りながら、ショーンはため息をついた。

「はぁ……」

 やはり自分は娘に弱い。

 いくらバシルの親族の協力や、タチアーナの能力、護衛としてのエドの腕があっても……心配は変わらない。

 どうか何事も無く帰ってきてくれと、娘の無事を心から祈った。

 

 

 

 一方、レオは……

 まず、タチアーナが小部屋で玲菜に弁明しているとも知らずに、緑龍城で恋人を捜す。アヤメにも訊ねたが、今度は本当に知らない様子。

 但し、捜せる時間は限られていて、自身の仕事の合間に回る。アスールス奪還隊の出軍も迫っていたのでやることが多くて、時間がどんどん過ぎた。

 

 

 やがて、「少し護身術を教えてほしい」と言われた朱音が、彼のために手を回して玲菜を連れていったが、ちょうどその時は忙しすぎて会えず。

 ついに明日の準備もしなくてはならない玲菜は家に帰ってしまった。一応「誤解なのは分かった」ということだけ伝言して。

 

 

 夜になり、ようやく時間ができたレオは、彼女が帰ってしまったことにガッカリしたが、朱音からの伝言にホッとする。とりあえず怒っていないらしいので良かったけれど、ちゃんと確かめるまでは落ち着かない。自分の口で釈明をしなくてはと思っていた。

 なので、明日のために本来なら緑龍城に泊まった方が良いところを泊まらずに家に帰る。なんとか彼女が起きている内に着くようにと急いで向かった。

 

 

 

 だが――

 残念ながら、玲菜は明日早く出る予定。本当はレオと話したいので帰ってくるのを待とうと思ったが、ショーンから「泊まる可能性」を教わると、明日のために眠ることにした。

 

 レオが帰ってきたのはそのすぐ後。

 いつもなら、まだ彼女が起きている時間だったので、早寝にびっくりしつつヤケ酒をする。

 こんなにタイミングが合わないなんて呪いでもかかっているのか。

 ムシャクシャしたのと、疲れもあって飲み過ぎて寝てしまった。

 だから、ショーンが「明日玲菜が出発すること」を伝えるために起こそうとしても全く起きず。

 

 

 

 

 次の日の早朝に、玲菜が出発する時も寝たままだった。

 しかも風呂も入らず、ソファの上で。

「おい! レオ!」

 呆れ返ったショーンが彼を起こそうとしたが、大分疲れているのを知っていた玲菜はそれを止める。

 バシルの故郷までは二、三日くらいで行けると聞いた。そこから精霊術士の所までは何日かかるかは分からないが、さほど遠くないとの事。もしかしたら往復十日程で帰ってこられるかもしれない。

 さみしくないと言えば嘘になるが、少し我慢すればまた会える。

 

 玲菜はてきぱきと支度をして、終わってもまだレオが寝たままだったので起こさずに出ることにした。起きたら彼は怒るかもしれないけれど。

(帰ったら、一昨日のことも含めて話をしよう)

 その時に仲直りができたらいいと思う。

 

 彼のことが好きだから、彼のことを信じたい。

 

 一刻も早く、呪いを止めたい。

 

 

「行ってくるね。レオ」

 

 玲菜はショーンが見ていない時に、そっとレオの頬にキスをした。

 

(……ん?)

 おかげで、一瞬眠りから覚めたレオは、目は開けなかったけれどもぼんやりと幸せを感じた。

 きっとここは家で、起きたら彼女が笑っている。

 後は、自分が起きたら彼女に謝ろうか。

 すぐに誤解は解けるはず。

 仲直りをしたら、今夜の出立前夜会で彼女をエスコートする。カルロスには絶対に近付かせないで、外に出て、キスを……

 

 

 その頃。

 玲菜とショーンは家を出て少し歩き、通りまで行くと、バシル所有の馬車が迎えにくるのを待っていた。今回はあまり自動車が通れない道が多いので馬車で行くことになり、それならばと、バシルが自分の馬車を提供してくれた。

 御者《ぎょしゃ》が緑龍城でタチアーナとエドを乗せて迎えにきてくれるのだという。約束の時間にはもうなっていて、そろそろ来る頃か。

 二人で待っていると、遠くから大柄な男が全速力で走ってきた。

 

 それはカルロスで、普段はちゃんと着ている貴族風の服が、いかにも慌てた風に乱れている。ボタンはちゃんと留めていないしシャツははだけたまま。とにかく急いで着用して出てきたのだとあからさまに分かった。

「レイナさん!!

 近付くと、顔が赤く汗だくになっているのも分かる。赤いのは、暑い理由の他に先日の告白の恥かしさも残っているようだ。

「あの……えっと……」

 動揺しながら話しかけてきた。

「ショーン殿もお早うございます」

「ああ、おはよう」

「タヤマから聞きました! 今日、北の方へ旅立つ話を」

 ショーンは決してタヤマ等には話していないのだが、一体どこから情報を得たのか。疑問はさておき、玲菜が答えた。

「はい。あ! でも、旅立つって言ってもそんな長くではないので」

 玲菜は長くなくても、カルロスは明日出立して、恐らく当分は会えなくなる。けれど、そのことは言わずに彼は伝えた。

「しかし、どうかお気をつけて」

「は、はい」

 彼のまっすぐな瞳は……少し苦手だ。

 目をそらして、玲菜は返事をした。

「心配してくれてどうもありがとうございます」

 そういえば、と思い出した。

「カルロスさんも出立が近いんですよね? 気を付けてください」

 

「あ、あ、あ……」

 あまりに嬉しかったのか、彼はまた両手を掴《つか》んできた。

「ありがとう!!

「え!?

 びっくりした玲菜は手を離すと同時に荷物を落として、カルロスが謝りながら拾った。

 ちょうどその時、馬車が到着。玲菜は二人に手を振って乗り込んだ。

 

 カルロスは名残惜しく手を振り、父も娘に何度も何度も「気を付けろ」と念を押す。そして走り出すと、二人で見えなくなるまで見送った。

 やがて馬車は見えなくなり、カルロスはショーンに挨拶をして去って行った。

 ショーンはしばらく見えなくなった方を眺める。心配はあるけれども我慢するしかない。こんな時、携帯電話があればいつでも連絡が取れるのに……と、過去の便利物をもったいなく思い出して家に帰った。

 

 

 

 そうして、帰り着いた頃。

 物音が聞こえて、ソファで目を覚ましたレオは、夢を見ていた気分でボーッとしていたが、ハッとして上体を起こした。

「玲菜!?

 なんとなく、玲菜とショーンが朝飯を食べている気がして、「もう! レオってどうしてソファで寝ちゃうの?」と彼女に怒られるような気がした。

 

 しかし居たのはちょうど帰ってきたショーンだけ。

「おお、起きたか」と、怒らずに申し訳なさそうな顔をしていた。

 朝からどこへ出掛けていたのか? 不審に思ったレオは一番気になることを訊ねる。

「玲菜は?」

 洗面所だろうか。なんとなく、近くに居た気がしたのに。まさかまだ寝ていたとか?

 首を傾《かし》げるレオに、ショーンは言い難そうに口を開いた。

「玲菜は今さっき、家を出たよ」

「は?」

 唖然《あぜん》とせざるを得ない。

 

「バシルの故郷に行くってさ」

 

 まさか自分の知らぬ間にそんな取り決めがあって、勝手に出発してしまうなんて……。

 

 レオはしばらく呆然《ぼうぜん》として状況を掴めないでいた。


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