創作した小説が世界の神話になっていた頃


 

[第二部・第七十四話:エア・アクア]

 

「足下滑るんで、気を付けてくださいね」

 小さな明かりを灯しながら先頭の男は心を配った。

 

 真っ暗な岩の洞窟。

 それほど狭くはないが、背の高いエドだけは少し頭を屈《かが》めている。

 明かりを点けないとすぐ近くでも見えなくなりそうなので、玲菜は先頭のアフから離れないように歩いた。その後ろをタチアーナ、しんがりはエドが務める。

 

 先ほど顔を拝見したアフロのアフは、三十代後半くらいの温厚そうな男。目は切れ長な感じだっただろうか……頭に目がいってしまって顔はよく見ていなかった。

 ただ、黒髪で大きな頭からは良い香りがしたので、多分髪には気を遣っているのが分かる。

 彼は自分を「ナジャーク家の遣い」と言った。

 ナトラ・テミスにも、バシルの実家の名字であるナジャーク家があり、精霊術を守ってきているのか。だとしたら、精霊の石もきっとあるはずで、今は祈るしかない。

 まぁ、タチアーナが以前『ナトラ・テミスにある』と感じていたので、恐らくは……目指す場所に在る、と。もしも無かったら手がかりだけでも訊かねば。

 

 そう、玲菜が考えていた矢先に、アフの方が訊ねてきた。

「あなた方の目的は、エア・アクアですか?」

「え?」

 エア・アクアとは……

「精霊石の名です」

 

 そうだったのか。と、玲菜が納得していると、アフは静かに告げる。

「精霊石があっても、精霊術士がいないと精霊術は使えませんよ」

 これから向かう、バシルの遠縁がその精霊術士のはず。大昔の、伝説の娘の子孫である、と。

 だが、別に精霊術を使ってもらうために術士に会うわけではない。

 タチアーナが口を開いた。

「大丈夫よ。私が精霊術を使えるもの」

 聞いたアフは立ち止まり、驚いたように振り返った。

「え? まさか……精霊石を守る一族の人間?」

「そうよ。うちは封印術を受け継ぐ巫女の一族で、アヌーの腕輪を守っている」

 

「え!?

 訳が分からなくて訊き返す玲菜に、エドが近付いて耳打ちした。

「アヌーの腕輪の青い宝石部分は、精霊石なのです」

 

 アヌーの腕輪は重そうな石で出来た腕輪で、血の色の呪文が刻まれて、青色の丸い宝石が埋め込まれていた。

 

(あれが……!)

 呪いがあるのは重い石の方で、青い宝石自体には無いと、どっかで聞いたような。

 ……そうだ。呪いの石の方が魔眼石《まがんせき》だ。

 ナジャーク家の先祖である伝説の娘は魔眼の娘と呼ばれた、と。

 とにかく、青い宝石が精霊石であるというなら、精霊石は世界に複数あることが分かる。

 

「封印術……なるほど。帝国に噂の一族がいたというわけですか」

 アフは考え込みながら訊ねた。

「では、封力石《ふうりょくせき》を守って?」

「封力石は無い。受け継いでいるだけ。封印術が使えればこんな苦労はしないわ」

 術は石が無いと使えないので、現在こういう事態に陥《おちい》っている。

 タチアーナは笑って続けた。

「そして、アヌーの精霊石も今は行くことができない場所にある」

 アヌーの精霊石含む腕輪は、ユナが腕に填《は》めて『時空の渦』に行き……その中に落ちている。『アヌーの結晶石』が無いと行けない場所だし、もし有っても二度と行かないだろう。

 

「なるほど」と、アフは頷《うなず》き、こちらを向きながら少し後ろに下がった。

「やはり、エア・アクアを狙っているのですね」

 そう捉《とら》えてしまったか。

 確かに、目的の精霊石はできれば拝借したい。

 だが、向こうにとっては家宝。

 

 アフはランプを地面に置き、腰から棒状の武器を取り出した。棒といっても、三つの棍棒《こんぼう》が鎖で繋がっている三節棍《さんせつこん》ともいうべき物。

「帝国のナジャール家からの紹介とはいえ、エア・アクアを狙っているなら話は別」

 まさか、こんな真っ暗な狭い洞窟で戦うというのか。

 アヌーの腕輪は狙われて戦が起きる程の物。同じく精霊石であるエア・アクアにもかなりの価値があるのは解る。

 だから、目的がそうであるなら敵と見なして追い払う気だろうか。

 向こうが武器を構えるとエドが前に出て、自分も装備していた槍を出した。

 

「ちょ、ちょっと!」

 不穏な空気の中、慌てて玲菜が二人を止めた。

「待って! 待ってください!!

 必死にアフに訴える。

「私たちは別に、盗んでお金にしようとか、悪い野望のために欲しいとかではなくて……」

 でも、個人的なことではある。

「私の、大事な人の命を助けたくて!」

 彼は、皆にとっても大事な存在であるが、助けるために働いているのは自分のため。

「私の……」

 大切な人……。

「個人的な理由になってしまっているのですが」

 俯《うつむ》く玲菜を見て、アフは三節棍を下ろした。

「そうですか。……ならば、話を聞かせてください」

 そう言うと、またランプを持つ。武器をしまい、エドも槍を戻した。

 

「洞窟を抜けた先で小屋があります。そこで少し休みながら聞きます」

 アフは歩き出して、玲菜はホッと息をついた。急いで後に続き、質問してみる。

「小屋?」

「洞窟を抜けるともう、ナトラ・テミス領です。小屋はよく使っているので綺麗です」

 配慮してきたのは、女性二人がいるからか。

「ただ、割と近くに国境警備隊がいるので、少しの間、休憩も兼ねて身を潜めましょう」

 そこで玲菜たちの話を聞くということ。

 念の為にアフは告げる。

「話によっては、残念ながら帰ってもらいますが、国境警備隊には引き渡さないのでご安心を」

「それは良かったわ」

 少し嫌味じみた声でタチアーナは返事をした。

 

 

 そうして、四人は洞窟を進む。

 途中からは隠し通路のような道を歩いた。

 

 

 やがて――ついに、洞窟を抜けて……

 外はまだ暗い中、岩山を背に林に入ると、木々に隠れた小屋があった。

 実感は無いが、国境を越えたらしく、玲菜たちは小屋に誘導される。

 

 中に入ると確かに小綺麗で、普通に人が住んでいる雰囲気がある。けれど誰も居なくて。

 椅子や机があり、玲菜たちはそこに座った。

 エドだけは窓の近くに立ち、外を窺《うかが》う。

 男爵の家で持たされた水筒の水を飲んで少し落ち着き、一息ついてから玲菜はアフに自分たちの理由を簡単に話した。

 

 

 戦で死にそうになった父を助けるために、恋人が呪われた剣を使った事。

 彼の背中に呪印が刻まれた事。

 呪いを抑えるために、青人魚の血の力を精霊術で引き出したい事。

 但し人魚の血が猛毒なので、浄化できる精霊の石(精霊石)が欲しい事。

 

 玲菜は念を押した。

「欲しいというか、借りたいだけなんです。終わったら返しにきますので」

 少し大変だが、それが筋だと思う。信用してもらえるかは別として。

 

 

 聞き終わったアフは、一先《ひとま》ずの疑問を訊ねた。

「呪われた剣とはなんですか?」

「えっと……」

 隠し事はあまりよくないか。

「シリウスの剣です。遺跡で変な力? みたいなのを得てから、呪いの力を持った感じです」

 玲菜の認識ではそうだ。

 剣は元々刃が透明だった。死者の塔の遺跡で魔法円に刺した後に色が黒へ変わった。それから不気味に感じるようになった。

 でも、彼が普通に使っている分には呪い的なものは無かった気がする。

「シリウスって、神話のシリウスのことですか?」

 考え込んでいるところに突然訊かれて慌てる玲菜。

「え? あ、えっと……そうです。神話の」

 アフは首を傾《かし》げた。

「そういえば、帝国ではシリウスと呼ばれる皇子がいましたね。皇帝になったんでしたっけ? 前《さき》の戦では、うちの国も散々苦しめられた……」

 そうだ。勝利の皇子だったレオは、ナトラ・テミスからすると疫病神。

「い、いましたね。そんな皇子も……。でも、シリウスの剣は神話のシリウスであって、皇子とは関係ないです」

 動揺しすぎて変に誤魔化した玲菜は、アフの不審そうな目に怯える。だが、彼は特に追求してこなかったので助かった。

 

 アフは「う〜ん」と考えて「背中の呪印の話は聞いたことがある」と話し始めた。

「魔眼の娘から伝わったとされる話で、似たようなものを聞いたことがあります」

 

 ――ある男が、死んだ自分の恋人を生き返らそうと蘇生の術を使い、冥界の王から背中に呪いを刻まれたという。

 

「冥界の王というのは、今でいう『アヌー』のことです」

 

 彼は、呪いを解くために立ち寄った国で『魔眼の娘』と出会う。

 魔眼の娘は男と共に『聖なる水源』という泉へ行き、彼の魂の洗礼を施《ほどこ》して呪いを解いた――と。

 

 

 どこにでもある神話のようにも聞こえたが、玲菜は声が震えた。

「背中に呪い!?

 至る部分にレオとの共通点があるような。

 

「聖なる水源の泉は、あらゆる呪いも解く力があるらしく、魔眼の娘もそこで自身の呪いを抑えた、とか」

 彼女には『魔眼』の呪いがあった。他人の心を読み、操る眼は、命を削り取る。

 抑えたといっても、結局は短命だった彼女だが、その後に愛する男性と出会って子供を産むまでは生きた。

 

 亡くなる前、彼女は夫に「幸せだった」と伝えたという。

 

 

「呪いを解く?」

 そんな夢のような泉があったなんて……

 つい、我を忘れてアフに詰め寄る玲菜。

「そのナントカっていう泉はどこですか? そんな所あったら、レオの背中だって!」

「落ち着きなさい、レイナちゃん」

 止めたのはタチアーナだ。

「大昔の伝承よ。聖なる水源はもう、とっくに無くなっている」

 なんとなく心当たりがありそうなのは気のせいか。

 いや、気のせいではなかったらしく、彼女は続けた。

「でもね、聖なる水源ってなんだと思う?」

「え?」

 

「聖なる水源は、『エアの涙』だとされている」

 

 まず、エアが分からない。関係のありそうな名が一つ。

「エアって? エアって、エア・アクアのこと?」

 精霊石の名が出て、アフが口を挿《はさ》んだ。

「エアは、エア・アクアに力を注ぎこんだ精霊と言われています」

 なるほど。

 ……では、どうなるのか。

 答えを自らタチアーナが言った。

「エア・アクアにも、聖なる水源のような力が少しはあるってこと。だから……」

 途中なのに玲菜が食いついた。

「呪いが解けるってことですか!?

「そこまでの力は無い! でも、『魔』を浄化するくらいはできる」

「ま?」

 多分、ショーンがいればもう少しすんなりと会話が進むはず。タチアーナは頭を押さえた。

「たとえば、人魚の血の毒みたいな」

 人魚の血の毒は、彼らにとって毒ではない。魔力を持たない人間にとってのみ、毒となる。

 そういった、特殊な毒を浄化するのに必要なのが精霊石でもエア・アクアだけ。

 

 説明をされて、ようやく玲菜は理解した。

「あ、そっか。だからエア・アクアが必要なんだ」

 精霊石ならなんでもいいわけではない。

 

 タチアーナの話を聞いたアフは驚いていた。

「なんだか……私よりも精霊に詳しいですね。さすが巫女の一族です」

 巫女の一族だからではなく、前世の記憶からの知識という離れ業だが、言わないでおく。

 ただタチアーナは、今の言葉で『とある可能性』に気付いていた。この事は、後に判明することになる。

 

 アフは考えて結論を出した。

「正直、蘇生術で呪いを受けるというのは今も昔も自業自得な気もしますが、まぁ……同情の余地はあります。一緒に精霊術士の許《もと》へ行きましょう」

 顔を見合わせて「ありがとうございます!」と喜ぶ玲菜には釘をさす。

「しかし、精霊術士が精霊石を出してくれるとは限りませんよ」

 それもそうだが、帰されるよりはマシだ。

 玲菜は精霊術士をなんとか説得しようと、心の中で気合いを入れた。

 

 

 その後、皆は小屋でしばし休息をとり、早朝になったところで出発する。国境警備隊に注意しながら小屋を後にした。

 

 

 ―――――

 

 

 一方その頃。

 緑龍城では、近々鳳凰城塞《ほうおうじょうさい》へ移動する隊の準備が進められていた。

 グリーン町の再建も少し落ち着きを取り戻し、まだまだ兵の救援を要しても、町人たちだけでなんとか頑張れるようになってきた。

 鳳凰城塞は軍の設備がかなり充実していて、いずれ最終目標であるサイ城奪還をするにあたっても、軍議や訓練等がしやすい要塞である。

 また、敵が本拠地である緑龍城を、大軍をもって攻める場合にも、地形や位置の問題により、鳳凰城塞で食い止めるのが最善となる。

 まさに要の砦であるために、本軍を移そうと軍総隊長と参謀長がずっと前から計画していた事だ。

 

 まだ移動は始めないが、先日アスールス奪還のための隊が出立《しゅったつ》をして、いよいよサイ城の攻略作戦も本格的に進めなければならない。アスールス隊の戦も始まっていないのに、軍師は早期から作戦を練っていた。

 

「提案だけど。戦が終わってもアスールスの連中は、半分くらいは残ってもらおう」

 ショーンは、軍議ではなく、幹部少人数による会議で大雑把な計画を話す。

 この会議は、作戦を練る参謀の会議とも違うもので、『奪還軍』と正式に決起する前の反乱軍初期から定期的に行われていた話し合いであり、メンバーもレオ、黒竜、バシル、レッドガルム……と、ショーン合わせて五人のみの、絶対的な信用且《か》つ気兼ねなく喋れる面子《めんつ》が揃っていた。

 

 部屋はあまり広くない部屋で、警備が抜かりなく立つ。更に、昔からのレオ専属の給仕が軽食や茶を用意。

 軍総隊長は軍師の発言に、茶を一口飲んでから聞き返した。

「残す? オヤジ、半分残すって言ったか?」

 ちなみにこの面子では、もう今は呼び名を変える等のことはしない。

 アスールス奪還戦は勝つ事を前提に、次の段階の話になっていた。

「軍はなるべく駐留させないって言ってたじゃねーか。なんでだ?」

「ああ、うん」

 ショーンは言い直す。

「半分っていうか、少なくとも海賊は残す。海に」

 海に残すというと、駐留とも違い、また彼らにとっても気楽にはなるだろう。

「海側の見張りをしてもらって、あと、サイ城にも近いから。最終決戦が始まった時もそこから出陣してもらうし」

 確かに合理的で皆は頷いたが、バシルはそもそもの疑問を感じる。

「ショーン殿は、サイ城攻略をおおよそ、いつぐらいと考えているのですか?」

 

「アスールス奪還後、あまり月日は空けないようにしたい」

 

 つまり、そういうことだ。

「あくまでも俺の意見だけど」

 最終的な決定はもちろん、軍総隊長がする。

 そもそもこの場はただの話し合いで、参謀の作戦会議や軍議はまた別にあるのだが。

「ふ〜ん、なるほど」

 レオは頭の中に留めた。

 

 サイ城攻略はいろんな方面で容易くはない。

 都には大勢の人間が住み、下の管理しきれていないスラムや不法居住・滞在、地下に住む者共を合わせればおよそ百万人以上の人口が予想される。

 たとえ住民を避難させたとしても都を戦場にするわけにはいかないし、向こうは逆にそれを利用する可能性も。

 更にもしかすると、市民の暴動が起きる可能性。

 また、地下や隠し通路を利用して城内部へ潜入する方法も、皇家の隠し通路すら割れているので難しい。

 

 ……だけでなく、皇帝の城だけあって、防備もかなり強固なものとなり、兵器においても最新型が揃う。只今は混乱中とはいえ、兵力も云うに及ばず。

 

 皆が考え込む中、ショーンは話を切り替えた。

「サイ城攻略は問題が多すぎるから、ひとまずアスールス防衛の陸側についてだけどさ」

 アスールス奪還には、まず、港町を包囲している偽皇帝下の軍を追い払い、そこから海へ出てクラウ公国軍に立ち向かうという道順を想定しているのだが、クラウ公国が必ずしも海からやってくるとは限らない。

 恐らく本軍が海側と予想されるけれども、奇襲やかく乱のために陸から国境を越えてやってくる軍も少なからずあるはずで、対陸用の防衛隊も配置することを予定していた。

 あまり人数も割けないので、できれば少数でも優秀な隊に頼みたい。

 

 忍びの隊の一部はすでにアスールス奪還隊に同行していて、バシルの隊は動けない。

 ならば「私が」とレッドガルムが名乗り出たが、ショーンは首を振った。

 レッドガルムの隊は前戦でかなり活躍してもらったので、連続且つ遠征というのは兵が疲弊してしまう。

「貴殿の隊はサイ城攻略の時に、大いに活躍してもらうから、今は休んでくれ」

 兵は大分増えたが、他に少数の精鋭というと……

 バシルの脳裏にある人物が浮かんだ。

 

「フェリクス殿!!

 

 皆は「なるほど」と顔を見合わせた。

 フェリクス率いる元親衛隊は、精鋭なのはもちろんのこと、遠征にも慣れている。鳳凰城塞には寝返った軍勢と鳳凰騎士団もいるのでフェリクス隊が出て行っても充分に守れる。

 まさにうってつけと思ったのだが、一つ問題があってレオは頭を押さえた。

「元親衛隊は、今はクリスティナの護衛隊であって、名前も『朱雀聖騎士《すざくせいきし》隊』となっているけどな」

 正式には『鳳凰・朱雀聖騎士隊』となり、実は守られる本人が所属している。

 

「隊長はクリスティナなんだよ」

 

 ……申し訳なくも、皆の表情は一気に不安で覆われた。

 

 

 

 

 ――その、噂の鳳凰城塞にて。

 十七歳の可憐な娘は、金色の髪を束ねて、侍女らと共に剣術を習う。

 それは赤い訓練着に身を包んだクリスティナであり、周りの心配をよそに本人はやる気満々。まさか戦で戦う気ではないだろうか!? 侍女たちを巻き込んで毎日訓練に励んでいた。

 おかげで……というか、元々幼少の頃に一通り習っていたというのもあり、なんとか様にはなっているらしく、少し離れた場所では兵たちが鼻の下を伸ばしながら眺める。一部からは戦姫《せんひめ》様と憧れの意で呼ばれ始めた。

 彼女は練兵場でも他の兵とは離れて女性の兵士に剣を教わり、訓練が終わると侍女たちと大聖堂へ戻った。

 大聖堂の修道院は女性の兵の兵舎代わりと、少なくも戻ってきた家政婦たちが入居している。その中には、元家政婦長だったマーサも真実を知って戻ってきていた。

 

 

 聖堂内で入浴した後、自分の部屋に着いたクリスティナは、疲れた体を癒すようにソファに座る。宮廷のように専属の給仕が居ないので、侍女たちはヘレンだけを残して茶等の用意をすると部屋を出て行った。

 

 クリスティナと最も仲の良い侍女のヘレンは自身の腕を見てため息をつく。

「このままだと筋肉がついて、腕が太くなりそうですね」

 彼女も年頃なので、少々深刻であり。しかし、クリスティナは気にもせずに嬉しそうにする。

「私《わたくし》、フェリクス様より強くなってしまったらどうしましょう!」

 まずそれは無いのだが。楽しそうなクリスティナを見てヘレンは微笑んだ。

 後宮に閉じ込められていた頃の彼女の顔は見ていられなかったから。今はこんなに活き活きとしている。もしかすると幽閉される前でも宮廷ではここまで元気なのは無かったかもしれない。

 ただ――あの頃も、玲菜と会っていた時ははしゃいでいた。

 今は、愛する夫ともそばに居られて凄く幸せそうだ。

「やはり、レイナ様のおかげですね」

 彼女が自分たちを助けにきてくれたから、今はこうしている。

「そうね。レイナ様は……」

 

 ――その時、ノックもせずに、一人の修道着姿の人物が部屋に入ってきた。

 本来その服は家政婦の格好であり、間違って入ってきたというのも有り得るのだが。

 油断して警備が甘かったと反省しつつ、ヘレンは注意した。

「誰ですか? この部屋をどなたの部屋だと心得ています?」

 

「御皇妹《ごこうまい》・クリスティナ殿下の部屋ですよね?」

 

「え!?

 

 顔を上げた修道着姿の人物は、金色の長髪の美しい顔立ちだったけれど、見たことがある顔で……声も男性。

 緑色の瞳を閉じて、自画自賛するように言った。

「ああ! ボクの美しさをもってすれば、後宮のみならず、女性だけの聖堂にすら入れてしまうとは!」

 その、自分を称賛する言動を見れば思い出す。

 立ち上がるクリスティナを守るようにヘレンが立った。

「シガ軍師!?

 

 ドアの方に目をやると、シガは手を向けて意味深長に笑った。

「おっと! 抵抗や、大声はやめてくださいね。他の侍女たちの命が惜しければ」

「一体、何を!?

 キッと睨みつけるクリスティナを見つめて、シガはほくそ笑んだ。

「大人しく話を聞いてくれれば、何もしませんよ。ただ、ボクの話を聞くだけでいい」

『言う事を聞け』ではなく、『話を』と言った。

 クリスティナとヘレンは不審に思いながらも言う通りにすることにした。

 

 シガは二人と少し距離をとりながら歩み寄り、近くにあった椅子に座る。

「今度は、忍びは潜んでいませんよね? また縛られたら嫌なので。まぁ、美しいボクを縛りたいのも分かりますが」

「用件はなんですか?」

 ヘレンが訊ねると、彼は髪を掻《か》き上げて告げる。

「御皇妹……いえ、クリスティナ内親王《ないしんのう》」

「え?」

 皇家では、皇帝と母が同じである場合、御皇妹ではなく内親王と呼ばれる。

「貴女はなぜ、本当の兄ではなく、腹違いの兄の味方をするのですか?」

 ふと顔色が悪くなるクリスティナを見ながら、シガは続けた。

「後宮に居る、貴女の妹や母を見捨ててまで」

「見捨ててなんかいません!」

 ヘレンは反論したが、妹や母が宮廷に居るのは確かで、自分だけ逃げてきたのも確かだ。クリスティナの体は震えた。

 俯く彼女にヘレンが耳打ちした。

「大丈夫ですよ、クリスティナ様。だから奪還軍に入っているのではないですか。サイ城を奪還すれば皆を助けられます」

 小さな声だったのに地獄耳なのか、シガは口を挿んだ。

「奪還というのは、実の兄を殺して?」

「そんな……!」

「アルバート皇子は自身の恨みから、セイリオス様を殺すでしょう。それとも、見逃すとでも?」

 多分見逃さないというのは、クリスティナたちでも分かる。

「貴女は、実兄殺しに加担するというのですか?」

「やめて!」

 ヘレンが怒鳴ってもシガはやめない。

「たとえ“正義”だとしても、母親や妹はどう思いますかね」

 クリスティナの脳裏に、泣いている二人が思い浮かんで口を押さえた。そもそも母が病気だったのは、兄のセイリオスが死んだと聞かされたから。

 

「最愛の夫も……」

 面白そうにシガは続きを話す。

「フェリクス殿は、今後どんなに頑張ってもアルバート皇子には赦《ゆる》されないでしょう」

 確かに以前、フェリクスに対して異母兄はそういう発言をしていた。『赦すことはできない』と。

 知っていて裏切り、大事な部下を殺した罪は消えない。

「貴女は夫に、ずっと罪を背負い日陰者として生きていけ、と?」

 恐らく異母兄は、夫に対して酷い仕打ちをするわけはないのだが、昔のようには戻れない。

「貴女が愛しているのは、異母兄ですか? 夫ですか?」

 シガは椅子から立ち上がって、クリスティナが涙を流すのを見ると満足したように背を向けた。

 

「実兄と異母兄、どちらの味方になれば幸せになれるのか……分かるはずです」

 

 そしてドアに向かって歩き出す。

「貴女の“本当の”兄上は、貴女が宮廷に戻ってきてくれるのを待っていますし、フェリクス殿を腹心にする気でいます。それに母上も妹君も喜びますよ」

 母と妹はずっと泣き暮らしているという。

「家族の味方をするのは自然なことなので、アルバート皇子も貴女が『裏切った』なんて思わないでしょう」

 最後に振り向いて一言を放った。

「我々は歓迎しますよ! フェリクス様とクリスティナ様、両殿下の帰りを」

 

 泣き崩れるクリスティナと支えるヘレンを見ずに、シガは部屋から出て行った。

 

 少し経ってから、茶や菓子を用意した侍女たちが戻ってきたが、彼女らは別に拘束も何もされていず、クリスティナたちの様子に驚いていた。

 シガに騙されたと判明して悔しくなったヘレンは、それよりもクリスティナの心中《しんちゅう》が心配になり、泣き止むまでずっと慰めていた。

 どんな結論であれ、彼女が選ぶ方に自分はついていこうと心に決めて。


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