創作した小説が世界の神話になっていた頃


 

[第六十六話:幸せと不安]

 

 本当は最初に違和感を覚えていた。

 しかしそれよりも混乱が大きくて。違和感がなんなのか突き止めなかった。

 そうだった。あの時、「自分は一体……」

 ――何者なのかと思ったはずだ。

 

『過去の自分の小説を盗んだのは未来の自分だったんだ』なんて解釈したらそれで満足してしまった。

 でも、そしたら自分は、元々この世界に居たことになってしまう。

 

(違う。『私』がこの先、自分の小説を盗みにいくことは可能だけど、“既に盗まれた小説”は一体誰に盗まれたの?)

 すべては小説を盗まれたのが発端で。

 自分がこの世界に来たのも。

 自分の小説が神話になったのも。

 

 もし盗まれなかったらどうなる?

 少なくとも、黒いローブの人物を追いかけてこの世界へ来ることはなかった。

 小説は神話にならない。

 この世界は存在していなかった……?

(ううん。違うな。私の小説に影響された世界はできなかったんだ。別の世界があったのかも)

 それこそ、似て非なる世界が。

(似て非なる世界……?)

 預言者・シドゥリは前になんて言っていただろうか。

(私が使命をしなければ、この世界が消えるって……もしくは、奇跡的に別の歴史が。みたいな?)

 

 もしも……

『奇跡はもう起きている』としたら?

 

 そうだ。

 

 自分の小説が神話になっていない世界がもう在ったとして。しかし、誰かが小説を盗んで送ったために歴史が変わって。世界は消えず、今のこの世界が形成されたとしたら。

 一体誰が……

 そして、どうして玲菜の小説を神話にするようなことを。

 

 

(誰が、どうして……?)

 急に新たな謎が出てきてしまい、混乱する玲菜。

 なぜか、今まで信じてきていた物が崩れそうで怖くなる。

 自分で問いかけておきながら、思ったよりも深刻な疑問になってしまったようでレオは焦って言った。

「あ、あんま深く考えんなよ。俺はちょっと疑問に思っただけだから。 なんにしても、これからのことにはあまり関係ねーだろーし」

「でも……」

 そうだとしても、玲菜は無性に不安になる。

「なんだろう? 凄く……」

「レイナ!」

 レオは彼女の頭を撫でてギュッと抱きしめた。

「あんま深く考えるなよって言っただろ? お前そーやってすぐなんでも心配するけど、過去に起きた事を心配しても意味ないし」

「う、うん」

 優しく撫でる彼の手は心地好い。

「俺は、嬉しいんだよ」

「え?」

「お前がこの時代へ来てくれて」

 そんなこと言われたら、こっちが嬉しい。

「うん。私も来られてよかった」

 最初は……どうして来てしまったのか、夢なら良かった、早く帰りたい――ただ、そればかりを願っていた。

 それが今は、来られたことを感謝さえしているなんて。

 

 二人はそのまま幸せな気分で眠りに就いた。抱き合っていると不安は消えて心地好く眠れる。

 あと、どのくらいの夜を一緒に過ごせるのかなんて考えもせずに。

 

 

 

 次の日は早朝から起きて、昨夜の疑問などを考える暇無しに玲菜は出発準備を整えた。

 寝ぼけ眼でダラダラしているレオを叱りつけながら彼にも準備をさせる。

 ボーッとしながらなんとか支度をしたレオと玲菜は、一先ず自分たちのテントを出る。

 すると外には従者やら護衛やら皇子に用の有る者、それにショーンまで立って待っていた。

(皆、待ってたんだ)

 なんとなく、気まずくなって顔を赤くする玲菜。

 彼らが皇子と恋人に気を遣って外で待っていたのは一目瞭然で、明らかにナニかを想定されている気がしたから。そうだ。本来、皇子の身の回りの手伝いをする従者さえも入ってこなかった。

(昨日は別に、何もしなかったんだけど)

 なぜか心の中で彼らに言い訳をして、従者たちに挨拶をする玲菜。

「おはようございます。あ、あの、遅くなってすみません」

 謝ると逆に彼らが慌てて、従者が言う。

「レ、レイナ様、大丈夫です。決して遅くなどなっていませんし、どうか謝らずに」

「え? あ、はい」

 どうも自分は皇子の恋人らしからぬ言動をしてしまうらしい。玲菜が焦っていると、助け舟の様にショーンが話しかけてきた。

「おはよう、二人とも。ベッドなんて無いけど、昨日はよく眠れたか?」

「う、うん。眠れた」

 玲菜の返事に続き、レオは外で待っていた者の用を聞いてから返事をした。

「ああ。寝た。それより腹減った」

 大食い皇子のいつものセリフに素早く反応したのは従者で、「すぐに用意します」と給仕を呼ぶ。すでに食事の用意はどこかにあったらしく、二人分の料理を数人が運んできた。

 もう一度テントの中に入り、今度はショーンも入ってきて腰を下ろす。

 二人は食事をしつつ、ショーンと話をした。

 

「俺もレイナから全部話を聴いたから」

 いきなりそこの宣言から入るレオ。

 ショーンは分かっていたという風に頷いた。

「あーそっか。で? 理解したか?」

「ああ。大体」

 レオは従者に自分の出発の準備を頼み、それと食事の間は三人だけにするよう、人払いも命令した。

「食事が終わったら呼ぶから。それまでは外の護衛たちにも少しテントから離れるように言っとけ」

「はい」

 返事をして去っていく従者を見て、玲菜は改めて思った。

(この人って、他の従者の人よりもいつも一緒に居るけど、ちょっと特別な役割?)

 レオにとってのいわゆる“従者”はいっぱい居るが、身の回りのことを一通りこなし戦場にも付いてきて騎士風な格好をしている彼。栗色の髪で他の従者よりも若干気品が漂うような十七歳くらいの青年。

(貴族かなぁ?)

 王子の従者は身分の高い者で、たとえば貴族の(長男以外の)息子がやると、自分の小説執筆のために調べた知識のうろ覚えであるのだが。

(どうなんだろ? ここは未来だから、王室や皇室が前世界と同じ仕組みとは限らないけど)

 この世界……というか、帝国に関していえば、玲菜の小説の影響と過去(旧世界)に似た部分が多数見受けられる。

(歴史は繰り返す、じゃないけどさ)

 宗教戦争にしても、領土を狙った争いにしても。

 ――とまぁ、難しく考えても仕方なく。

 玲菜は一先ず先ほどのレオの従者の名前を訊くことにした。

「あの人さぁ、いつも見かけるのになんて呼んだらいいか分かんないんだけど、名前って何?」

「え? フルドのことか?」

「フルドさん?」

「さっきの、俺の従騎士のことだろ? あいつは俺が城に入った当初から仕えてくれている。最初はうっとうしい小姓だと思ったけど、なんだかんだで今は頼りになるし」

 レオの説明に、ショーンは「うん、うん」と頷いて笑った。

「フルド君はしっかりしている。っていうか、レオの従者は優秀で気の利く人間が多いから。なんつーか、主人が反面教師になってるのかもな」

「ハンメンキョーシ? どういう意味だよ」

 レオは言葉が分からなくても悪い意味だと理解してムスッとしたが、表情を戻して言った。

「でもまぁ、確かに。俺は自分の側近には恵まれたかな。皇家の人間がろくでもない奴ばっかだけど」

「ははは」

 苦笑いしながらショーンはレオに教えた。

「じゃあ、サーシャに感謝しろよ」

「え?」

 サーシャはレオの母親の名前。

「お前の付き人は全部サーシャが決めたんだよ。彼女は人を見る目があったからなぁ」

(そうだったんだ!)

 玲菜が驚いてレオの顔を見ると、彼も驚いた顔で止まっている。しかし、すぐに苦笑いして俯いた。

「男を見る目だけは無かったけどな」

 自分の父親のことだろうか。

 ショーンは彼が父親を嫌っているのを知っていたが敢えて告げる。

「皇帝陛下は強い人だったぞ。それに、お前を…」

「強い? 赤風に負けた人間が?」

「アカカゼ?」

 初めて聞いた言葉だったので訊き返す玲菜。

「“赤風《アカカゼ》”は通称で、本当は肺砂病《はいさびょう》っていう」

 ショーンは玲菜に説明した。

「肺に砂が溜まる病気で、この世界全体でよくある風土病っつーかな。皇帝陛下が罹った病気でもあるけど」

「皇帝陛下が?」

 衰弱していた皇帝を思い出す。

「俗に赤風って呼ばれているのは赤い砂漠の砂を風が運んでくるから」

「それで、赤風……」

 納得する玲菜に、レオが付け加える。

「主な症状は咳。たまに激しく出る。それと高熱が出ることもある」

「咳と熱? なんか風邪みたい」

「うん。だけど」

 ショーンが続きを言った。

「肺砂病が怖いのは、一度罹ると今の医学では治す手段が無いこと。それと、段々と体を蝕んでいくこと。最初はただの喘息だけなのに、気付くと自分で立てなくなるほど重症になるんだ。そして最終的には……」

 皇帝陛下の姿が思い浮かんで怖くなる玲菜。ショーンは彼女の肩を優しく叩いた。

「でも、救いもあって、肺砂病は比較的進行が遅いんだ。体を悪くするまでに十年とか二十年とか。もちろん個人差があるけど」

「それをあいつは、たった五年で、あそこまで体を悪くした」

 貶すように口を出すレオ。

「確かに年齢のせいもあるかもしれないけど、あいつ自身が治す気が無かったんだ」

「レオ!」

 頭を押さえて何か言いたげに彼の名を呼ぶショーンの心が分かったレオは、悪態をつくのをやめる。

「分かったよ」

 いくら憎んでいたとしても、死んでしまった人間を……しかも自分の父親を貶すのはあまり良い行為とは言えない。

(俺もいつまで囚われているんだ。あいつは死んだのに)

 そう思ったレオは、別の人物の死のことを思い出して頭が痛くなった。

(ああそうだ。フレデリック)

 ショーンたちに話そうか迷う。

(いや、いいか。どうせ明日には分かる)

 それよりも。

「オヤジ、無理を承知で相談があるんだけど」

「え?」

 レオは玲菜の意志よりも自分の願望を優先して訊ねた。

「俺はレイナを帰したくない」

「ああ、うん」

 ショーンは分かっていた風に頷いたが、玲菜は焦ってしまう。

「え! で、でも」

「でも、こいつの使命? の重要さも分かった。それを踏まえて敢えて訊く」

 レオの眼は真剣で、ショーンをまっすぐ見ている。

「世界も消さずにこいつをここに残す方法、もしくは一旦帰っても戻ってくる方法を教えてくれ」

 なんと、玲菜の意見も聞かない。

「お前、ホントに……」

 ショーンは呆れた目をしたが。

「オヤジは知っているんだろ?」

 変わらず真剣な眼だったので敵わない。

「……うん」

「え!?

 一番驚いたのは玲菜だ。

 いや、本当は可能性に少し気付いていた。たとえば、向こうでもブルームーンの日にアヌーの結晶石を使えば或いは、とか。ただ、確証は無いし、父のことなど色んな不安要素があったので気付かないふりをした。

(でも、ショーンはちゃんと知ってるんだ)

 なぜか一気に現実味を帯びてくる。

 いつだってショーンの言う通りにしていればすべてうまくいくような感覚まで。

「知ってるけど俺は、それはレイナの選択に任せようかと思っていた。レオ、お前が『ここに戻って来ること』を強要したらレイナは困るぞ」

 一見もっとも風な意見の落とし穴にレオは反論した。

「強要はしねーよ。俺だって判断はレイナに任せる。ただ、方法を知らなければ選択だってできねーだろ? オヤジ、こいつが方法を知っていることを前提で話すのはおかしいだろ」

「……え?」

 ショーンは、熱心に聞く玲菜に疑問を呈した。

「レイナ。キミは、使命の後に元の世界へ帰らなくてはいけないと思い込んでいる?」

 

(思い込み?)

 まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、呆然とする玲菜。

 ショーンは頭を押さえた。

「そっか。シドゥリの言葉をそんな風に捉えちゃったんだな」

「え?」

 二人の顔を見て、ショーンは考え込む。

「う〜ん……。じゃあ三人で、確認するか」

 但し、状況的に長話はできない。

「とりあえず後で、だな。キミら食べ終わったんだったら、ゆっくりもしていられないからもう出発しなきゃ。馬に乗ったまま喋るのはアレだから、休憩の時とかに」

 そうだ。二人は朝食をとり終わり、三人だけで移動しているわけではないのでのんびり休んでいられない。兵たちは出発の準備をしている。

「ああ、分かった。休憩の時に」

 レオは立ち上がってテントの外に行き従者――フルドを呼ぶ。従騎士のフルドはすでにレオの胸当てやマントを用意して待っていて、他の者も馬の世話などをしていた様子。少し遠くに離れていた護衛たちも戻ってきた。

 

 

 やがて準備は整い、兵は出発する。

 シリウス含む小隊も間に紛れて進む。

 そして昼近くになると馬を降り、昼食兼休憩の時間になった。

 

 

「えっとな、レイナがこの世界に留まる方法だけれど」

 パンなどの軽食をとりながら、護衛から話を聴かれない程度に離れた木陰で、三人は朝の話の続きをする。

「まず、残念ながらこの世界に居続けるという方法は今の所見つからなくて」

 ショーンは声を潜める。

「ただ、キミらが気付いていないだけで、一度帰ってもこっちに戻ってくることは可能なんだよ」

 聞いた瞬間に嬉しそうな顔で玲菜の方を見るレオ。

 玲菜自身も何か見落としがあったのかと、力が抜ける。

 今までずっと……一度帰ったらこちらに戻ってこられないと思っていたから。

 レオやショーンともう二度と会えないと思って。

 

 だからこそレオとの別れを決意したし、何度も泣いた。

 

 一息つき、ショーンは話し始めた。

「どうしてかっていうと、鍵――アヌーの結晶石の寿命はたった一回ではないから。俺の予想だと、少なくとも二回は使える、と」

「二回……」

「うん。そもそも、レイナの使命は『帰る事』ではなくて、『帰って小説を送る事』だから。その時点で必然的にもう一度入口を開くことになる」

 確かに。そうだ。

 小説を盗んで送って、玲菜は元の世界に帰るしか道が無いと思っていた。

(違う! そうとは限らない?)

 

「そして、小説を送った後、どちらの出口に行くのか」

 

「あ!」

 玲菜は口を押さえ、遅れてレオも反応する。

「ああ!」

「そう。その時、選択できるんだよ。多分」

 ショーンの言葉に、レオは声を弾ませて言った。

「レイナ! 難しく考えることなかった! 小説を送ったあと、お前はこっちの世界に戻ってくればいいんだよ」

(え? でも、それってつまり……)

 玲菜は考える。

 つまり、選択肢がふりだしに戻るということ。

 元の世界ならばレオやショーンと、こちらの世界ならば父と、二度と会えなくなる方を選ばなくてはならない。

(結局は、私がどっちかと決別しなきゃいけない)

 レオはもう、玲菜がこちらに戻ってくるものだと思って喜んでいる。

 もちろん玲菜も、レオと離れたくないし、できればこの世界に居たいと今は思っている。

 そしてそれが可能ならば、心残りは一つだけ。

(お父さん……)

 

「ま、なんにせよ、一度シドゥリの所へ戻って確認しないと。それに、もう一つ必要な物があるし」

 ショーンが言うと、浮かれていたレオは我に返って質問した。

「もう一つ? ……あ、そういや『アヌーの結晶石』は? 見つけたのか?」

「ああ。それらしき物は幾つか。その確認もシドゥリにしてもらわないといけないし」

 正直レオは今まで、アヌーの結晶石が見つからなければいいと思っていたが、玲菜がこちらに戻ってこられる可能性が出たのでもう問題無く受け入れられる。

 彼女が最終決断をまだ出せていないのも分かっているけれど、それもなんとかなる、と。

 

 

 そして――

 三人が昼食を終わらせた頃合いを見て、従騎士のフルドが窺いながら近付いてきた。

「アルバート様、そろそろ出発のお時間です」

 そうだ。話に夢中になっている場合ではなく、昼食が済んだので出発しなくてはならない。

「続きの話はあとで」と三人は立ち上がり、また馬に乗る。

 

 玲菜はレオの馬に乗って揺られながら、後ろの彼に温もりを感じて幸せな気分になった。

(温かい。この温もり、失わなくて済むのかな?)

 一度は失うことを覚悟した温もり。

(使命が終わったら、私、ここに戻ってきていいの?)

 まだ何か信じられなくて実感がわかない。

 すぐ戻るということは、自分の世界に帰るのは一瞬だけになる。

(本当に、そんな風にうまくいく?)

 こちらを選択したら、もう父とは会えない。

(手紙だけでも……って、無理かな)

 たとえば時間を少しずらしてとか、色々と考えても。そのせいで過去が変わってしまったらと思うと何かできる気がしない。

 しかし、小説を盗むことは予定通りにこなして、手紙だけ自分の机に置いていくことはもしかするとできるかもしれない。

(お父さんに手紙、書けるかも)

 預言者・シドゥリに話を聞いてから、ずっと帰る方向で考えていたのに、まさかここにきて選択肢がふりだしに戻るとは思わなくて。

 まだ最終決断はしていないが恐らくこちらに戻ってくると……漠然と感じながら、玲菜は妙な不安に襲われていた。

(なんだろう、これ。まだなんか、見落としがあったっけ?)

 俯いていると、後ろからレオが心配して声をかけてくる。

「どうした? 気分でも悪い?」

 玲菜は顔を上げて首を振った。

「ううん。そんなんじゃないよ。ちょっと考え事してただけだから」

「そうか」

 しばらく静かに揺られた後、心地好い風が吹いて。

 玲菜の不安は段々と和らいだ。

 

 ――大丈夫、きっとうまくいく。

 そして、最後の選択をしなくては。

 

 そう心に決めた玲菜を乗せて、馬はゆったりと帝国西方門への道を進んだ。

 

 

 

 そして、何度か休憩の後、砂漠の手前の廃墟の町で睡眠を取る一団。この後向かう帝国西方門へは、行きとは道が違い、過酷な砂漠越えはしなくて済む。

 船は湖に置いてきているので砂上輸送に関しても帰りは楽で、時間は短縮できる。

 兵たちはようやく砦に戻れることを楽しみに、使えそうな家屋の下で一晩を過ごした。

 

 

 ―――――

 

 

 帝国西方門に着いたのは次の日の昼頃。

 兵たちは順々に国境警備隊詰所の砦に入っていく。

 本来ならば祝賀兼歓迎ムードであってもよいはずなのに、国境警備隊及び防衛にあたった兵たちはどことなく沈んだ様子。先に鳳凰城塞に戻った隊もあるが、残った隊には戦が終わったにしては尋常じゃなく張りつめた空気が流れていた。

 

 その原因をレオは知っていた。

 

 自分は――異母兄・フレデリックの死を確かめなくてはならない。

 

 ショーンに玲菜を預けて黒竜のみを連れて遺体安置所に向かうレオ。

 布を口に巻き、立ち入りを禁止した奥の部屋の入口近くには、一足早く着いた鳳凰騎士団長のフェリクスが肩を落とした様子で立っていた。

 彼は身内ではないが、異母妹・クリスティナの婚約者。特別に知らされてきっと遺体を確認したのだろう。酷く落ち込み、呆然としている。

 レオが彼に声もかけずに扉を開けようとすると中から女性の悲鳴が聞こえた。

 一瞬、開けるのをためらってしまう。

 代わりに開けたのは黒竜で、すぐに、その悲鳴の主が誰なのか分かってしまった。

 それは、報せを受けて都からとんで来たアンナ皇妃――フレデリックの母親だ。

 彼女は、「フレデリックのはずがない」と泣き叫び……いや、むしろ発狂していて、付き人たちが体を支えている。

 その近くでは、つい今しがたここに来たばかりの次男・ヴィクターが壁の方を向き、しゃがんでいる。あまりにショックだったのだろうか。やはり付き人に支えられてどうやら吐き気を催しているらしい。

 

 棺があるのは、更に奥の引き戸の向こうで。

 レオは一度目をつむり、一息ついてから覚悟を決めた。

 黒竜が確認を取る。

「殿下。よろしいですか」

「……ああ」

 彼が引き戸を開けると、途端に奥から異臭が放たれる。奥の棺は閉まっているのにそれでもここまで。

 長期の戦場で嗅いだことのある、死体の腐った臭い。

 誰だって気がおかしくなりそうになる。

 棺の前には、顔を覆うマスクをした者たちが居て、レオの姿を見るなり「アルバート皇子、ご確認を」と頭を下げる。

 レオは前に出て、彼らはゆっくりと棺を開けた。

 それは……防腐処理を施されていたのにも関わらず、腐臭の激しい若い男の死体。全身に包帯を巻かれて、確認しろと言われた頭は見るも無残になっている。アンナ皇妃が「あれはフレデリックではない」と言う気持ちも分かる。ヴィクターが吐きそうになる気持ちも分かる。それでも、よく見て……何度もじっくりと見て。レオは確信した。

「異母兄・フレデリックで間違いない」

 フレデリック皇子は兵の士気を上げる為に自ら前線に出て、引き下がる際に砲撃に巻き込まれたのだという。

 

 確認が終わり、棺を閉めて奥から出てくると、アンナ皇妃が泣き叫びながらレオに訴えてきた。

「アルバート皇子!! どうであった? そなたにも分かったはず。あれは、フレデリックではないと」

 彼女は錯乱状態で、息子の死を受け入れられない。言葉遣いも普段の丁寧さはなく荒くなっている。

「皆に言ってくれ、別人であると!」

 何も答えられずに俯くレオに、アンナ皇妃は責める。

「なぜ黙る! 貴様さては皇帝になりたいが為にフレデリックを死んだことにしようと……企んでおるな!?

 元々皇妃はレオを嫌っているはずで。しかも極度の興奮状態のまま殴られる可能性もあったが、レオは静かに答えた。

「アンナ様、兄上は……」

 或いは、それで少しでも気が治まるなら。

「なぜだ……」

 アンナ皇妃は、レオの服を掴んで体を震わせながら言った。

「アルバート皇子、なぜ……フレデリックを守ってくれなかったのだ……」

 あの高飛車な皇妃が、力を失くして泣き崩れたので続きを言えない。

「フレデリックぅうう……!!

 付き人が彼女を支え、レオは小さく謝った。

「すみません、アンナ皇妃」

 レオ自身も、彼女のことは好きではなかったが。だからといって、最愛の息子を失って悲しむ母親をあざ笑う気なんて起きない。まして、フレデリック自体はそこまで嫌いでもなかったし。

 皇帝になればいいと――思っていたのに。

 

 レオは黒竜を連れて、静かに遺体安置所を去った。


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