創作した小説が世界の神話になっていた頃


 

[第八十二話:お父さん]

 

親愛なるお父さんへ。

 

お父さん、お元気ですか?

なんて言ったら変かな?

でも言わせてください。私は元気です。

お父さんと離れてもうすぐ半年が経ちます。

お父さんにとっては朝家を出てからだから、そんなに時間は経ってないよね。

けれど私の中では長い時間が経ってしまいました。

意味分からないよね?

でもお父さんは信じてくれると思うのでここに書きます。

私が今どこで何をしているのか。

そして、これからどうするのか。

大好きになってしまった人のこと。お父さんに似ている人のこと。他にも関わったたくさんの人たち。

すべては書けないけれど、お父さんは分かってくれると思います。

そして、私の親不孝を許

 

 

 *

 

 ――駄目だ。

 涙が出る。

 

 ショーンの家の自分の部屋で、父への手紙を書いていた玲菜は思わず泣き出した。

 書いていると父への想いや記憶が思い出されて哀しくなる。

 読んでいる父を想像すると泣いてしまう。

 父は意外と涙もろいところがあるから。自分の机からこの手紙を発見して、最初は信じなくても自分が帰ってこなくて。やがて読み返して号泣するんじゃないかと思うともう……

 涙が止まらない。

「お父さん……お父さん……!」

 あまりに泣いて続きが書けなくなる。

 ああそうか。自分が涙もろいのも父の遺伝か。今になって気付いた。

『私の親不孝を許してね』

 何て自分勝手なのか。小説家になって有名になって、親孝行するはずだったのに。

(って、まだ文章下手くそだけど)

 そのために書いた小説がもとで親不孝をするなんて。

 ……自己嫌悪に陥っている場合ではなく。

 玲菜は泣きながら続きを書き始めた。

 もう時間が無い。

 あと一ヶ月あると思っていた満月の日も、気付くとあと三日後に迫ってしまった。

 知り合った人には一通り挨拶をした。

 商店街の人たちにもしたし、仲良い服屋の店員の娘は餞別として可愛い服をくれた。遠くて会えない人たちには手紙を出し、ミリアが呼ぶと言ったアヤメはギリギリで明後日、都に到着するのだという。二人にしてもらえる送別会は明後日。

 そして、明日はレオが無理やり時間を作ってくれたのでデートをする約束をした。彼は今日の夜帰ってくるのだと言う。

 手紙はそれまでに書かないといけない。

 町は新年の新皇帝誕生の準備でざわついていて、自分だけ取り残されたよう。

 隣のサリィさんは明日の夜、とびきり美味しい手作りケーキを届けてくれるのだという。

 

 レオとは約十日前に宮廷で偶然会ってから、会えていない。その日は宮廷に泊まってしまったが。次の日はもう忙しくて。

 離れたくはなかったが帰ってきた。

 自分よりも相手の方が離れたくないと思っているはずで、その想いは痛いほど伝わってきた。

 こちらだって、二年の間に彼の身に何か起きたら……なんて思ってしまう。

 ただ、戦は先日休戦の申し出があったそうだから、もしかすると平和に暮らせるのかもしれない。油断は禁物だが。

 

 自分にとってはある意味、四日後。この世界はどう二年間が経っているのか。

 ちなみに、次のブルームーンの日を計算してくれたショーン曰く、同じ月の二回目の満月というのは、旧世界の暦に合わせてあり、この世界の暦では二回目ではないのだという。なので、一度旧暦に戻してこの世界での満月に合わせるという、なんとも難しい計算になる。

 その頃に、ショーンはレナの聖地へ迎えに来てくれると言う。もちろんレオも来ると言ったが、忙しくはないだろうかとも思う。

 計算上ではちょう今から約二年後の同じ季節。彼が二十三歳の誕生日を迎える前だという。

 二十一歳は無理だが、二十三歳の誕生日は一緒に過ごすことができるかもしれない。

(って、それよりもお父さんへの手紙書かなきゃ)

 玲菜は何度も書き直しながら父への想いを込めて手紙を書いた。

 

 

 

 そして夜になり。

 夕飯も食べずにずっと彼の帰りを待っていると、少し遅い時間に玄関のドアを開ける音が聞こえる。

 玲菜は玄関に飛んでいき、彼の到着を出迎える。

「お帰り! レオ!」

「ただいま」

 目の前には、明らかに急いで帰ってきたであろうレオの姿が。

「思ったより早かったな」

 ショーンも出迎えて、彼はショーンにも挨拶をする。

「ただいま、オヤジ。メシは?」

「おい、久しぶりに帰ってきて相変わらずだな」

 ショーンは呆れて、しかし本当は嬉しそうに台所へ戻る。

 台所には彼の好きなものばかりの料理が並んだ食卓があり。

 彼は即夢中にその料理を平らげた。

 用意した酒も一気に飲み干して満足そうにする。

 玲菜とショーンは唖然としてしまった。

 だが、その日は久しぶりに一家団欒的な雰囲気で、楽しく夜が過ぎる。

 

 

 その夜、父への手紙をまだ書き終わっていなかった玲菜はまた泣きながら続きを書く。

 すると、部屋のドアをノックする音がして。開けると前にショーンが立っていた。

「ど、どうしたの? ショーン」

「ああ、えっとな……」

 ショーンは慌てた風に訊く。

「明日、どうするのかと思ってさ。朝から出ていくんだろ? 夜は帰ってくる?」

「え……?」

 一瞬、もしかしたら彼の屋敷に泊まるかもしれないと思ってしまったが。次の日はミリアたちと会うことだし。

「あ、帰るよ。夜には、多分」

 帰った方がいいと思い、そう返す。

「そうか。なら、夕飯作っとくから。俺も明日出かけるんだけど、キミらより早く帰ってくると思うからさ」

 ショーンはそう言うと「おやすみ」と言って階段を上っていった。

「お休み」

 自分の部屋に戻って、慌てて鏡を見る玲菜。

 目の辺りを確かめて、ショーンに泣いていたことがバレていないか考える。

(多分、バレてる)

 バレているというか、彼はもしかしたら泣いているのに気付いて、心配して部屋にやってきたのではないだろうか。

 そして、それが父への手紙のことで泣いているとも勘付いているのかもしれない。

(ショーンは鋭いからな)

 玲菜はため息をつき、心を落ち着かせてから続きを書いた。

 そして、夜が明ける――

 

 

 

 ―――――

 

 翌日の朝。

 玲菜は服屋の店員の娘がくれた服を着て、うんとオシャレをする。久しぶりの彼の朝風呂も確認。バスルームで「早く行こう」と声を掛ける。

 彼は念の為に髪形を変えて、暖かくなってきたので着る服の量を減らす。といっても、どこかキッチリきめた服を着て、妙な高貴さと大人っぽさが漂う。

 玲菜が見惚れていると向こうも見惚れていて、ショーンが恥ずかしそうに声を掛けた。

「行くのか? それとも家に居る?」

「い、行ってくるよ!」

 そう言ってレオは出ていく。玲菜も後をつくように出ていって、外に出ると二人は手を繋いだ。

 ちょうどその場面を隣の家のサリィさんに見られてしまったが、慌てずに挨拶をして歩き出す。

 

 歩いていると、花の匂いのする暖かい風が吹き抜け、桜がもう満開になっているのが見えた。

 その美しさに玲菜は感激する。

「ねぇ、桜が綺麗!」

 自分の時代でも桜は綺麗だった。時を超えても美しさは変わらず儚さも兼ね揃える。なんて情緒的だ。しかも、レオと二人で手を繋いでそれを見られるなんて。

(あ〜〜〜花見がしたかったなぁ〜〜)

 お弁当を作ってレオやショーン、ウヅキと。……なんて考えるとワクワクする。

 それはもう無理だが、花を観ることはできる。

「ね、桜が綺麗な所無い?」

 玲菜が訊くと、レオは「ちょうどいい」と笑った。

「今から俺が向かおうとしている所は、サクラが綺麗だぞ」

 

 レオは商店街でたくさんの花を買った後、馬車を拾い、その場所へ向かわせる。

 

 

 そこは……

 桜が満開の、皇族の墓地。

 馬車を降りると風が桜の花びらを舞わせる。

「こんな所で悪いけど、母親にお前のことを紹介しようと思ってさ」

「え?」

「ずっと来ようと思っていたんだけど、中々機会が無くて」

 

 レオは無言になり、玲菜を引っ張ってゆっくりと歩く。

 彼の母親が眠る場所。

 玲菜も自然と口をつぐむ。

 

 そうして、許可の無い者は入れない柵を越えて辿り着いた先には……

 立派な墓石と大量の花。

「俺も置いてるけど、結構誰かが欠かさず花を置いてくれてんだ」

 レオは買った花の三分の一をその墓石に供える。

「もしかしたらオヤジなのかもしれねーな」

 花を置いてくれている者の正体。

 玲菜もきっとそうだと思う。

 しかし、残りの花はどうするのか。

「ね、あとのお花はどうするの?」

 玲菜が訊くと、レオは持っている花を更に二つに分ける。

「こっちはシドゥリに」

「あ!」

 ハッとする玲菜。そうだ、彼女は……

「この近くの戦没者の墓地に、シドゥリが眠っているから、あとでそっちに行くか」

「うん」

 知らなかった。泣きそうになる玲菜に、レオは手を向ける。

「待て。まだ泣くな! これから泣かせるから」

「え?」

 泣かせるとは、どういうことか。

 不思議に思っているとレオはシドゥリ用の花を横に置いて、残りの花束を手に持つ。それは薔薇の花束で、よく考えるとあまり墓に似つかわしくないような……

「こんな所で、まぁ、アレなんだけどな」

 

 彼は突然ひざまずき、玲菜に薔薇の花束を差し出した。

 

「帰ってきたら、俺と結婚してくれ」

 

 

「……え?」

 

「前は決まんなくて。しかも断られたけど、改めて申し込むよ」

 彼の眼は真剣で、まっすぐに見つめる。

「后《きさき》とは言わない。レイナ、俺の妻になれ。ただ一人の」

 ひざまずいている割には命令形。

 レオはびっくりしている玲菜の手を取り、甲に口づけをする。

 

「生涯、お前だけを愛すから」

 

 玲菜はあまりに高揚して体が震えた。

 答えは決まっているのに、あまりのプロポーズに、頭がついていかない。

 これは映画のシーンか何かか。

 こういう時、本来ヒロインは泣かなくてはいけないのに。いつも無駄に多く出てくる涙が出てこない。本当に、信じられなくて。

「ごめん」

 玲菜の謝りに、レオは断られるのかと思いドキリとしたが。

「びっくりしすぎて泣けないよ〜〜〜〜!」

 玲菜は雰囲気ぶち壊しの如く嘆いた。

 

 途端に真っ赤になるレオ。

「ああ……うん」

 思ってもみなかった彼女の反応に、次言うセリフを忘れる。

「えっと……だからな、……」

 少し考えて思い出す。

「ああ、そうだ! お前、返事は?」

 なんてことだ。

「い、言わなくても分かるでしょ?」

「わっかんねーよ!!

 グダグダになってしまった。

 玲菜は恥ずかしくて俯きながら言う。

「あの、……私で良ければ。よろしくお願いします」

 今度こそ良い返事をもらえて、レオは立ち上がった。

「俺と結婚するってことだな?」

「そうだよ! 帰ってきたら……」

 言いながらハッとする玲菜。

 彼にとっては二年後かもしれないが、自分にとってはすぐの話。

(私、もうすぐ結婚するの?)

 実感が全くわかない。けれど、迷いはない。

 この世界に戻ってきて、彼と結婚する。そしてずっと一緒に居たい。

「あ! もう一つ!」

 彼は思い出したようにもう一度ひざまずいてジャケットの内ポケットから何かを出す。それは小さな箱であり、玲菜の時代と風習が同じなら察することができる。

 そうだ。玲菜の小説に影響された世界ならば、同じ可能性が高い。

「これは、結婚を約束する証なんだよ」

 もしかすると知らないかもしれないと思ったのか、説明しながら箱を開けた彼が持っていたのはまさしく。

「知ってる。私の時代も同じ」

 指輪であり。

 恐らく意味合いは婚約指輪。

「同じか! 良かった」

 レオは立ち上がり、指輪を玲菜の左手薬指に填める。

「これでもう、お前は俺と結婚するしかねぇよ」

 若干、重みが違う気もしたが。レオは玲菜の腰に腕を回して自分に引き寄せる。

「あとな、知ってるか? 証を填めたら、キスをしなくちゃならないんだ」

 果たしてこれはしきたりなのか、ただの口説き文句なのか。

 分からなかったが、玲菜は従って目を閉じた。

 

 彼の唇が自分の唇に触れる幸せな瞬間。

 

 

 それからレオは、自分の母親の墓にもう一度挨拶をして、今度は戦没者の墓地へ向かった。

 そこに着いた時、ある人物に似ている後ろ姿があったが、遠かったので声は掛けられず。

 玲菜が確認する。

「今のってショーンだよね?」

 シドゥリの墓の上にはたった今置いた風の花があった。

「来てたんだな、オヤジ」

 というか、知っていたことに驚く。

(シドゥリの墓のこと、言ってないのにどこから情報仕入れてんだ)

 いや。

 レオは隣の墓にも置かれる花を見て、悟った。

(違うか。こっちの墓参りした時に気付いたのか)

 まぁ、詮索はあとでいいか。今は玲菜と二人で居る時間が大事だ。

 

 用も済んだことだし、レオはまた馬車を捉まえて街に戻り、二人はデートを楽しんだ。食事したり広場を散歩したり、普通の恋人たちと何も変わりはない。

 楽しく、仲良く過ごせたがどこか寂しい想いも感じる。

 明後日の夜には、彼女は……

 辛いことを考えそうになったレオは首を振って彼女の左手薬指を見た。

(大丈夫だ。二年だけ我慢すれば、レイナは戻ってきて俺たちは結婚できる)

 そしたら、どんなことがあっても彼女を幸せにしようと心に決める。

 

 

 

 そうして、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい。日も暮れると、二人はショーンの家に帰る。

 本当は、レオは自分の屋敷に連れ帰って……と、計画があったのだが、彼女が「帰る」と、ショーンと約束してしまったというので仕方なく。

 いざとなったら夜這いか……

 そんな風に、レオが頭の中で計画しながらショーンの家のドアを開けると――

「レイナちゃん、いらっしゃ〜〜〜い!」と、何やら数人が出迎える。

 それはなんと、ミリア、アヤメ、イヴァンであり。

 三人は後ろにレオも居たことでびっくりした。

「あれ? 二人一緒だったんだ」

 落ち着いて話すのはイヴァンだけで、ミリアとアヤメはアルバート皇太子殿下のご登場に興奮して「キャアキャア」騒ぐ。

 実はこれはショーンの計画した、玲菜送別会であり。

 一緒に住んでいることは伏せて、イヴァンたちを家に呼んだのだという。

 ミリアはショーンの家というだけで興奮していたが、もちろんレオと玲菜の部屋はバレないように立ち入り禁止。三人の若者の他に、天才技師のマリーノエラも呼んでいて、送別会を行う。

 明日来ると言っていたアヤメも驚かせるために今日来ていたし、サリィさんから美味しそうなケーキが届き、ショーンが腕によりをかけて作った豪華な料理があるし、玲菜は喜んでレオまで嬉しそうにする。彼の視線の先には用意しておいたたくさんの酒。

 玲菜送別会という名の宴会は夜遅くまで続いた。

 

 

 

 皆が起きたのは昼ちょっと手前。

 アルバート皇太子だけは従者が迎えに来て朝から連れていかれ、酒を飲んでそのまま居間で寝てしまった皆は起きて昼だったことに驚いて急いで片づけをする。

 まさかおじさんの家で寝てしまうなんて。ミリアとアヤメは慌てて身なりを整えて「失礼しました」と恥じらった。

 三人で計画していた玲菜送別会はショーンの家でやったので変更。一応、玲菜はこの家に住んでいないことになっているので、三人で帰るということになり、片づけが終わるとお暇する。

 イヴァンも同じく、片づけが終わると帰って、マリーノエラはショーンに頼まれた車の整備の出張に出掛けた。

 

 

 玲菜は、ミリアとアヤメと三人で昼食をとった後お喋りを楽しみ、夕刻に別れるとまたショーンの家に戻る。マリーノエラは整備が終わって出張代と整備代を請求した後に帰り、家では二人とウヅキだけになった。

 最近はレオも居なかったので、いつも通りの最後の晩餐。

 昨日騒がしかったのとは裏腹に、静かな食卓を囲む。

 今日が最後。

 明日の夜にはレナの聖地へ行く。

 

 二人で食事をしながら、玲菜は改めてショーンに話した。

「ミリアたち呼ぶとは思わなかった。でも楽しかったよ、ありがとう」

「うん。この前図書館に行く途中で偶然にミリアちゃんに会ってさ、アヤメちゃんと三人で送別会するって聞いたから。だったらイヴァンも呼んでうちでやろうかってことになった。レイナは夜来るってことにしといて。もしかしたらアルバート皇太子も来るかもしれないって言っといて」

 なるほど。昨日、万が一帰らずにレオの屋敷へ行っていたらどうなっていたかと思うとゾッとする。

 ショーンは付け足す。

「マリーノエラはついでだよ。レイナが手紙出した時に、車の整備の出張も頼んだから。ちょうど昨日に来たから教えたら『参加したい』って言ってさ」

「そうだったんだ」

 あのメンバーならば、玲菜とレオが恋人同士なことも、レオがアルバート皇太子だということも知られているので気兼ねない。

 ただ、今日の昼にミリアとアヤメが昨夜の皇太子のことを嬉しそうに話題にしていたことはさておき。

 本当は昨夜に気付いていたが、ショーンは玲菜の左手薬指に注目した。

「プロポーズされたのか?」

「あっ……!」

 顔を赤くして、玲菜は頷く。

 

「そうか。やっぱり……」

「え?」

「いや、そうするんじゃないかと思っていてさ」

 なぜかショーンは何かを誤魔化した風であったが。玲菜に優しく微笑んだ。

「おめでとう、レイナ」

 ここで玲菜は、涙を零した。

 ショーンに祝われたのがそんなに嬉しかったのか。それとも、彼がどことなく寂しそうだったのが、まるで父の様に感じたからか。

(お父さんには『おめでとう』って言われないんだ、私)

 もしも、自分が嫁に行く時は、父から『おめでとう』と言われるのだと漠然と想像していたが、それは叶わない。

 手紙にレオのことを書いたが、果たして祝ってくれるのか……不安だったから。

 ショーンに言われて、父に祝われた気分になった。

「ありがとう、ショーン」

 駄目だ。涙が止まらない。

 玲菜は両手で顔を覆う。

 本当に、ショーンには世話になった。ショーンが居なかったらどうなっていたことか。

 感謝しても感謝しても足りない。

(ショーンは私にとっての、この世界でのお父さんだよ)

 玲菜は言葉には出せなくて、心の中で彼に感謝した。

 今までのことを思い出すと、どんなにショーンに救われたか分かる。

 最初から彼は親切だった。

 本当は、レオが「オヤジ」と呼ぶように、自分もショーンのことを「お父さん」と呼んでみたい気分もあった。

 けれど、彼の娘が嫌がると思って。別に聞かれるわけではないが遠慮した。

 今だけ、言いたい。

「ありがとう。おと……さん」

 手で顔を覆ったまま、言ってしまった。

 きっとショーンは驚いている。いや、困惑しているか。

 しまった。もう顔を見せられない。

 そう、玲菜が思っていると。彼女の頭に大きな手が乗る。

「キミは俺の、娘みたいなもんだから。二年後もよろしくな」

「……うん」

 嬉しくて恥ずかしくて、玲菜はしばらく両手で顔を覆ったままでいた。

 ショーンはしばらく彼女の頭を撫でると、やがて居なくなる。

 おじさんが居なくなって玲菜はようやく手を外すことができた。

 ゆっくりと食事を済ませて、片づけをする。

 明日の今頃は……なんてことを考えながら風呂に入り就寝した。

 

 

 

 いよいよ満月当日。

 玲菜は緊張していろいろなことが手につかずにボーッとしていた。

 失敗したらどうしようとか、ここへ戻ってきた時の心の準備ができない。

 自分に正体を分からせないための黒いローブと小説を入れるための箱も用意した。あの時、黒ずくめの人物は小さな明かりを持っていたように感じたが、あれはきっとアヌーの結晶石の光なのだと今は悟れる。

 時間は刻々と過ぎていき、体の震えが止まらない玲菜はウヅキを抱っこした。

「ウヅキも、ごめんね。二年後に戻ってくるからね。元気でいてね!」

(あとなんかあったかなぁ? やっとかなきゃいけないこと)

 一ヶ月という十分な時間で、挨拶などすべてやったはずだが。心配は変わらない。

(行ったらもう、どうとでもなれ、だよ。大丈夫、結晶石が光って教えてくれるから私は落ち着いてその通りに)

 駄目だ。緊張が高まる。

(あああ〜〜〜どうしよう。待って! もう少し待って!)

 だが、時は止るはずなく。

 

 

 

 

 ついに日が暮れて夜になってしまった。

 緊張しすぎて、なんだかよく分からなくなる玲菜。半年間住んだ地下の自分の部屋に行き、深呼吸をする。

(大丈夫、できる。大丈夫、できる)

 その時、玄関のベルが鳴って心臓が止まりそうになった。

 

「お迎えに上がりました、レイナ様」

 ……朱音だ。

 朱音は、玲菜とショーンを護衛しながらレナの聖地へ送ってくれるのだという。レオは黒竜と後から来るらしく、なんとか頑張って夜に時間を作るとの事。

「じゃあ、行くか」

 ショーンに促されて、玲菜はウヅキとしばしの別れをしてから出発した。

 

 馬車に乗り、目的地が近付くと鼓動が一層激しくなる。

(止まれ……! あ、止まれじゃない。治まれ……! 治まれ、私の心臓!)

 胸を押さえる玲菜を見ると心配でショーンまで緊張してしまう。

「レイナ、深呼吸だ」

「う、う、うん。」

 何度も深呼吸をさせる。

 

 ついに、目的地のレナの聖地に着き。

 空を見上げると満月が見える。

「今日もいい満月だなぁ〜」

 ショーンは気楽に感想を述べた。

 一方、玲菜は緊張で死ぬ寸前。

(私、使命を果たす前に死ぬんじゃない? これ。こんなに心臓バクバクいってたら、死ぬんじゃない?)

 命の危機さえ感じる。

 後はレオがシリウスの剣を持ってきたら……と思った矢先、黒竜が到着。

 秘密のことなので、もちろん従者も付けずにレオが到着した。

 彼は、緊張ではなく表情が曇っている。

 無言で、酷く落ち込んでいるよう。

 そんな顔を見たら、玲菜は緊張よりも哀しさが前にきて、夢中で彼に駆け寄っていた。

「レオ!!

 ただ触れたくて。

 二人は抱きしめ合った。

「レイナ!!

 

「レオ!!

 言葉が出てこない。

 戻ってくると言った。結婚の約束もした。あとはもう、お互いを信じていくしかない。

 きっと自分は、行って戻ってきたらすぐに彼に会える。

 迎えに来てくれるらしいから。

 使命さえ成功すれば。またここに帰ってきて。世の中はいろいろと変わっているかもしれないけれど、なんとかうまくやっていけるはず。

 ただ、彼の辛そうな顔を見ると自分まで泣きたくなる。

 何度も言っているのに、玲菜はまた告げた。

「戻ってくるから。待っていて。結婚もする! 私は、レオがここに迎えにきてくれているのを信じているから」

 そうは言っても、正直今も怖い。

 この数時間でどう変わってしまうのか。怖くて仕方がない。

 レオにも何か言ってほしい。

「大丈夫だ」とか、「愛している」とか。不安で死にそうな心を言葉でかき消してほしい。

 だが、彼は何も言わずに……

 ギュッと抱きしめた後、キスをしてきた。

 近くにショーンが居るのに、何度も、何度も。

 キスを終わらしたら別れがやってくると……それが怖くてやめられない。

 けれど、覚悟を決めなくてはならない。

 

 レオは名残惜しく唇を離すと、玲菜の耳元で囁いた。

「続きは、二年後」

 

 消え入るような声だったので、玲菜は涙を流した。

「うん」

 それを見て、レオは切なく笑う。

「また泣いてんな、お前」

 玲菜は涙を拭いて黒いローブを服の上から着た。顔も隠れるようにフードを深く被る。

 箱を持って、アヌーの結晶石を持つ。そして父への手紙も懐に忍ばせた。

 

 多分、準備はいい。婚約の証の指輪にそっと口づけをする。

「お願い、レオ」

 

 玲菜がそう言うとレオはレナの石像の前に立ち、シリウスの剣を掲げた。

 

 

 月明かりが刃を照らす。

 

 すると――

 突然シリウスの剣が黒く光って、ちょうど玲菜が最初倒れていた場所辺りの上に渦ができた。

 アヌーの結晶石も青く光る。

 その不思議な光景を、皆が目を丸くして見る。

 

「……行ってきます」

 

 玲菜は渦に近付き。

 一度レオや皆の方を見た後。

 光る結晶石を持つ手をその渦に近付けた。

 さっきまで酷く緊張していたのに。どうしてだろうか、今度は妙に心が落ち着いている。

 振り返ってはきっとまた涙が出てしまうから。

 

 玲菜は振り返らずに、渦に手を入れた。

 

 途端に、――周りが真っ暗になる。

 

 

 (え?)

 

 いつの間にか。真っ暗な場所に玲菜が一人。ただ一人だけが居た。

 一瞬怖くなったが、ふと見ると、アヌーの結晶石がほのかに光っていた。

 

 急に記憶が甦って、前来た場所だと認識する。

(そうか。ここが……時空の渦)

 振り向いても、もう誰も居ないし、そもそもここはレナの聖地ではない。

(来たんだ)

 真っ暗な場所にただ一人なので不安も過ったが。

 その時、結晶石が前方を照らす。

 先にあるのは一つの扉。

 シドゥリが、命を懸けて施してくれた術の効果だ。

(じゃあ、あそこの扉は……私の時代?)

 時間は確か、2012年の八月三十一日。十七時四十五分。よーく思い出してシドゥリに伝えたので憶えている。

 玲菜はもう一度深呼吸をして、その扉に向かって歩いた。まずは自分の机から小説を盗まないと。その時に、こっそり父への手紙を置いて。もう一度入口の鍵を開ける。

 

 ――だが。

 

 扉に向かってゆっくりと歩いていた玲菜に、信じられない光景が目に映る。

 

 自分は何もしていないのに、突然その扉が開く。

(え?)

 

 しかも、そこから自分と同じ格好をした黒ずくめの人物が箱を持って現れた。手には光る何かも持っている。

 逃げるように走っていて、その後ろから追いかけるように若い娘も現れる。半袖ポロシャツとハーフジャージ、ピンクのスリッパを履いた娘は、茶色い長い髪をしていて……

 もしも、自分のドッペルゲンガーが居たとしたらそんな感じ。

 

 いや、違う!

 

(え? 今の、私!?

 玲菜は頭の中が呆然とした。

 なぜ、自分がまだ行っていないのに黒ずくめの人物と過去の自分がここに入ってくるのか。

 いや、それより……

(誰? 今の黒いローブ!!

 玲菜は背筋がゾッとした。

 今のは……誰だ。

(私?)

 頭が混乱する。

 

 とにかく確かめないといけない。

 玲菜は足が震えてくるのが分かったが、過去の自分ともう一人の黒ローブの人物を追いかけてそちらに向かった。

 

 おかしい。

 何かがおかしい。

 なぜこんなことになった?

 あれは誰だ。見当もつかない。

 

 とにかく必死で追いかけると、

「待って」と叫んでいる声が聞こえる。

「私の小説返してよ」の声も。

 これは過去の自分の声か。

 

 そして、やっと二人を見つけたと思った時、遠くで黒ローブの人物が小説の入っているらしき箱を一つの扉の前に置いたところ。

 箱は吸い込まれて、過去の自分が嘆く。

 また、黒ローブの人物は逃げて、過去の自分は追いかけていく光景が見えた。

 

 ……なぜ、その、自分が体験した光景を……端から自分は見ているのか。

 本来なら、あの黒ローブの人物は自分の役目ではないのか。

 それが自分の使命ではないのか。

 疑問がとにかく渦巻く。

(あれ? でも、さっき、小説送った?)

 そういえば、先ほどの光景は……小説が送られた様子。

 誰かは分からないが、代わりにやった人物がいる。

(え? じゃあ、私……使命もう終わり?)

 もしかしてこのまま戻ってよいのではないか。

(嘘?)

 腑に落ちない。

 玲菜が訳も分からずにただ歩いていると、先ほどの所に戻ったのだろうか、光る扉が見える。

 あれは、行きそびれた元の自分の時代の扉。

(どうなってんの?)

 玲菜はその扉に近付く。

 

 すると――先ほど見た黒ローブの人物が玲菜に近付いてきた。

 

 

 *

 

 

 一方。

 未来のあの世界で、信じられない出来事がレナの聖地にて起きていた。

 先日と似ている状況ではあるが。

 今回は本気らしい。

 

「やめてください!! 私たちは、貴方を殺したくはありません!!

 月明かりの下、朱音の声が響く。

「なぜだ……」

 嘘であってほしいと願うレオの叫びも届かないのか。

 

「なぜ、裏切ったんだ、オヤジ!! ……俺じゃなくてレイナを!!

 

 ショーンは、レオの首に短剣を向けていて、朱音や黒竜を動けないようにしている。

「すべては運命と、あの娘のため……!」

 レオを人質に、朱音たちの動きを封じたのには訳がある。

 それは、とある人物がここに来たこと。

「あの娘って、今通った、あいつのことか!?

 朱音は勘付いた。

「まさか、レイナ様の先回りをするつもりではないでしょうか!?

 

 玲菜が時空の渦に入って直後に彼女は来た。そしてショーンがレオを人質に取り、彼女を通す。

 彼女には鍵が有った。

 結晶石よりも恐ろしい鍵が。

 

 ショーンの真意は分からない。けれど。

 レオには分かっていることがあった。

「やれよ。ショーン……いや、ジョージ」

 朱音が調べて、分かってしまったこと。

「お前は、死んだ『ショーン』になりすましている、友人の『ジョージ』なのか?」

 

 ショーンは、「フッ」と笑って彼を見る。

「調べたのかよ、レオ。まぁ無理もないか。俺のことは信用ならないもんな」

「ふざけるなよっ!!

 レオは、力を失くしたように言った。

「俺は、信じていたかったよ。俺にとっては、どっちでもいいんだ。『ショーン』だって、『ジョージ』だって」

 彼にとっては、たとえ別人になりすましていても父親は一人だけ。

「オヤジにだったら、俺は……殺されても……」

「アルバート様!!

 朱音がレオを注意した時、ショーンは短剣を地面に突き刺す。

 すぐさま黒竜が彼に刀を向けると、ニッと笑って両手を上げた。

 朱音は静かに問う。

「ショーン様、皇太子に刃を向けて人質にするということは、捕まるとどうなるか分かりますか?」

「分かっているさ。皇太子暗殺未遂で極刑だ。残念だけど仕方ねぇ」

 分かっていて、彼はレオに剣を向けたのか。

「二年後、レイナが無事にこっち戻ってこられたら、レオ、お前迎えにきてやれよ、ここに」

「なっ……!」

 レオは彼の言動の意味が分からなくて怒鳴る。

「何言ってんだ!! 今、あいつを通したってことはレイナを危険な目に遭わせるってことだろ? 下手すりゃ歴史が変わる!! それなのに、なんで二年後のレイナを心配するようなことを!! オヤジは一体、何を考えて……」

 

「運命を信じる! って言ってんだ」

 

 ショーンは語る。

「確かに、俺は昔、ジョージと名乗っていた。だが、真実は別にある――」

 

 

 *

 

 

 一方。時空の渦の中で、玲菜はある人物が自分の目の前に居て驚愕していた。黒ローブの人物の声が、彼女にそっくりだったから。

「あら、レイナじゃないのー。奇偶ねー」

 毒を飲んで死んだはずの彼女の声。

「ユ……ナ……?」

 顔は見せない。いや、見せられないのか。もしかすると目が朽ちたり老化して。

 そして、眼が見えなければこちらの姿も見えないはずだが、そもそもこちらもフードを取っていない。つまり――“視える”ということ。

「どうして?」

 信じられないことが多すぎる。

「あの毒――最期の慈悲はね、量を調節すると仮死状態で留めることが可能なのよ。私は死んでなかったってわけ。そして、ショーンさんがこれをくれたの」

 彼女が見せた腕には、確かにアヌーの腕輪が填めてあった。

「ショーンが……?」

「アルバート皇子を人質に取って、私をここに通してくれたのも彼」

 ユナの言葉に、玲菜は愕然とした。

「嘘だよ!」

「本当よー。私も、もうショーンさんがどっちの味方なのか分からなくなっちゃった」

 ユナは得意げに言う。

「これ填めたら凄いのよ! いろんなことが視れちゃって。どの扉に行けばいいかとか、すぐに分かるんだもの」

「ユナは何が目的なの!?

 ショーンのことは置いといて、玲菜は問う。

「私の小説を、盗んで送ったのはユナなんでしょ? どうしてなの? 過去を変えるのが目的なんじゃないの?」

「え? 小説? なんのこと?」

 ユナは先ほどの行動に対して「知らない」という風にしたが、突然頭を抱え出した。

「なに……!? これ……!! 頭が……!!

 苦しそうに、もがき始める。

「ああああああ!! あああああ!!

「ユナ!?

 それはまるで呪いのように。

「ユ、ユナ!! どうしたの!?

 目の前で絶叫されて、玲菜が心配すると。

 彼女は今まで苦しんでいたのが嘘のように平然とした。

「何? 今の痛みは。副作用?」

 彼女自身も驚いている様子。

「だ、大丈夫?」

 玲菜が近付くと、ニヤッと笑って蔑んだ目でこちらを見てきた。

「私、アナタのそういうところ、大嫌いなのよねー」

 ムッとすると、何かを企んだ風にほくそ笑む。

「そして、アルバート皇子を苦しめたいのよ」

 

 いきなりだった。

 

 いきなり、玲菜の持つアヌーの結晶石を掴み、奪ってきた。

 玲菜は決して油断していたわけでも、結晶石をちゃんと持っていなかったわけでもないのに、力が妙に強かった。

 何か不気味な感じがする。

 不気味だけではない。

「え……? ちょっと、待って?」

 結晶石を取られた玲菜が慌てる間もなく。

 ユナは玲菜を力強く突き飛ばしてきた。

 

 後ろに倒れこんだ玲菜は、自分が光っている扉に触れていることに気付く。

(え?)

 気付いた瞬間に扉に引き込まれて――

 

 

 

 

 ―――――自分が、倒れたのは……

 見たことのある部屋。

 そこまで昔ではないのに、遠い記憶にあったような……

 

 もう、ここは時空の渦ではなかった。

 未来の世界でもない。

 混乱の中に、自分の知っている場所だと、確信を感じる。

 

 見覚えのある机と、ベッドと。薄暗くなる部屋。

 何かの音がしばらく鳴り続いて、消えた。

 半年ほど関わっていなかったのに、ボンヤリと、携帯電話のメールの音だと分かる。

 その時、ここがどこでいつの時代なのか一気に理解する。

 まさかと思い、玲菜はすぐに時計を見た。

 すると……針は六時十七分を差していた。恐らく夕方。

 ただ、なぜ今その時間なのか分からない。

(あ! そうだ!)

 玲菜は気付き、急いで点滅する携帯電話を見る。多分、父からのメールが一件あるはずで。

 そう思ったら、メールは二件入っていた。

(二件?)

 違う。

 疑問に思うのはそこではない。

 携帯電話の時計は、十七時四十八分を指していることに驚いた方がいい。

 玲菜はもう一度部屋にある時計の方を見た。そちらは六時十八分。

 ちょうど三十分違う。

(なんで?)

 玲菜は焦って携帯電話のメールを見る。

 二件とも父からで、最初のメールは『今終わった。今日何か買う物ある?』で、時間は十七時十五分。次のメールは先ほどのなので、時間は十七時四十六分。

『そういえば玲菜の部屋の時計、三十分もズレているから、直しといた方がいいよ』だった。

 自分の部屋にある時計は、父の古い時計で、電池で動いている。

 最近、いつの間にかずれていたが、携帯電話の時計を見るので気にしていなかった――記憶を思い出す。

 つまり……

 

 玲菜はとある事実に気付いて呆然とした。

(時計、早かったんだ!!

 自分が、一生懸命思い出してシドゥリに伝えた時間は、三十分違う時計の記憶だったということ。

 どういうことになるのか、考えると震えてくる。

(十七時四十五分じゃなかったんだ!! 見た時計が三十分進んでいたから、本当は十七時十五分だったんだ、あの時!)

 そうだ。目を覚ました時、外でチャイムが鳴っていたが、あれは夕方五時のチャイム。そこから小説が盗まれるまでに四十五分もかかるはずがない。

 父からのメールも、いつもより三十分遅いと思ったが、本当はいつも通りに会社が終わっていたはずだ。

 

 本当は、時空の渦に迷い込んだのが十七時十五分だとしたら、三十分遅れで向かった先の扉では間に合わない。

 例えば、アヌーの腕輪で真の時間が視えていたユナに先を越されるなんてこともあり得る。

 

 そして今、間違った時間でシドゥリに術を施してもらった扉に、ユナに押されて入ってしまった。

 時空の渦に入り込んだ三十分後の世界。

 結晶石は彼女に奪われてしまったので、入口の鍵を開ける術が無い。

 

 もう、時空の渦にも、未来の……レオたちの世界にも戻れないという事実。

 

 

「嘘……でしょう?」

 こんな絶望あるか。

 必ず戻ると約束したのに。

 結晶石も取られたし、もしかするとユナに歴史を変えられたかもしれない。

 そんな絶望あるか。

 

 自分は、これからこの世界で生きていくなら全く関係ないという残酷な仕打ち。

 玲菜は立っていられなくなってその場でしゃがみ込んだ。

 体が震える。

(これって、私……)

 元の世界に戻されてしまった。自分の意思ではなく。

 未来の世界に行ったのも、自分の意思ではないが。

 彼から貰った指輪がただ残っただけ。

 

 どのくらい放心状態になっていただろうか。

 外はすっかり暗くなっていて、「ただいまー」という声と共に玄関が開く音が聞こえる。

 多分父で。あんなに会いたかったお父さん。

 だが、玲菜は返事ができなかった。

 

「玲菜? 二階に居るのか?」

 

 階段を上る、父の声が聞こえたが、それにも返事ができない。

 

「おーい。お父さん、電池買ってきたんだけど。メールしただろ? 読んでない?」

 あんなに会いたかった父は、返事もないことに不審を感じて部屋のドアをノックしてきた。

「寝てるのか? 開けるぞ?」

 悪いと思いながらもついつい、娘の部屋を開ける。

 

 電気も点けずに暗い部屋で座り込んでいる娘を心配して近付いてきた。

「おい! どうした? 玲菜? 何かあったのか?」

 ようやく振り向く玲菜。

「おと……さん……」

 父を呼んだだけで、涙が零れ落ちた。

「え? なんだ? どうしたんだ、その格好」

 父は娘が泣きだしたこともびっくりしたが、黒いローブという格好にも驚く。

 彼女に近付き、自分もしゃがんで話を聞く体勢になった。

 

 玲菜はローブを脱ぎ、止まらない涙をティッシュで拭く。

 ローブを脱ぐと髪が短くなっていることにも気付き、父は問う。

「あれ? 美容院行ったのか?」

「ちがっ……」

 玲菜はあまりにも悲しくて、父に全部話すことを決めた。

「お父さん、私ね……」

 ふと煌めく薬指の指輪。

「この指輪って……」

 つい、父が気にしてしまうと、娘の口からとんでもない言葉が出てきた。

「私ね、結婚を考えている人が居るんだけど」

「え!?

「っていうか、居たんだけど……」

 また娘は涙が止まらなくなった。

「これから…私が……言う……」

 駄目だ。うまく言葉にできない。

 玲菜は父に書いた手紙を出した。手紙に大体の説明が書いてあるから、読んでもらえば分かるはず。自分の目の前で読まれるのは恥ずかしいけれど。

 父に差し出した。

「ん? なんだ? 手紙?」

『お父さんへ』と書いてある。

「読…で。読めば……分かるから」

 泣きじゃくる玲菜を見ながら、父は手紙を――笑いもせず、疑いもせず、じっくりと読んだ。

 

 

 読み終わって、しばらく考え込んでいる。

 普通は信じられない。

 小説か何かかと思うレベル。

 けれど、自分の話はいつも疑わずに聞いてくれた父。

 玲菜は話を付け足す。

「それで、私は……向こうの世界へ戻ろうと思って、使命を実行しにきたんだけど」

 結晶石を取られて、この世界へ戻されたことを話す。

「――だから、もう未来には行けないから」

 ただ、そもそも父を残して向こうで暮らそうとしたことが親不孝すぎる。

「お父さん、ごめん。ごめんね。手紙だけ置いて黙って行っちゃおうとして」

 もしかすると、これは必然で。別の世界でずっと住むという事自体無理だったのではないか。そんな気さえしてしまう。

「でも安心して。私はもう行けないから。夢だったと思って、ずっとここで暮らしていくからね」

 泣いてもどうにもならない。

 こうなってしまっては諦めるしかない。

 例えばもう一度彼らが結晶石を見つけて、自分を迎えに来ようと時空の渦に入ったとしてもどの時代の扉か分からないはずだし。

 まずあり得ない。

 

「玲菜は、それでいいのか?」

 突然、黙って話を聞いていた父が口を開いた。

「え?」

「結婚したいと思える男が居たのに、こんなに泣いているのに、それでいいのか?」

「で、でも、もう結晶石無いし。っていうか、お父さん信じるの? 私の話」

「嘘なのか!?

「嘘じゃないよ! 嘘じゃないけど!」

 信じてくれるだけでこんなに嬉しい。

(やっぱお父さんだ……!)

 あの人と似ている。

 

 父は「う〜ん」と考えて、しばらくの間、悩みに悩み。

「分かった! もう、決めた!」

 きっぱりと言った。

 

「玲菜、お父さんに任せろ! 未来の世界へ、連れてってやるから!」

 

 

 ……なんて言ったのか。

 

「……え?」

 玲菜が遅い反応を示すと、頭を掻きながら自分の部屋へ戻る。

 父は何を言ったのか。

 考えていると、父は戻ってきて「つまり」と気まずそうに持ってきた物を見せる。

 それは……

 青くて、真珠のような丸い宝石。

 そっくりな物を、自分は知っている。なぜ父は、これを持っているのか。というか、知っているのか。

 言いにくそうに、父は訊く。

「まぁ要するに。これだろ? アヌーの結晶石ってさ」

 

 玲菜はしばらく、理解ができずに呆然としていた。


{第一部:完} 第二部へつづく・・・



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