創作した小説が世界の神話になっていた頃
[第七十八話:最期の術]
彼とのお喋りは楽しい。
玲菜はよく、そう感じていた。
本人は女と喋ることがあまり好きではないなどと言っていたが、自分と喋るのは好きだと言ってくれるし、なんていうか意外に聞き上手なところがある。
玲菜の話を興味持って聞いてくれて、自分の意見も言ってくれる。
多分、喋るのが楽しいと感じていたのは割と最初から。
そして玲菜は、彼と一緒に眠ることも凄く好きだった。
特に何もしなくてもただ一緒に横になる。
彼が髪に触れてきて向き合う。
それが、なんとも言えない心地よさを感じさせる。
だから寝ながらお喋りなんて至福。
その至福のひとときを今は味わっているといえる。
「八月? 八月って夏なのか? 暑いのか?」
二人で寝転がりながら、玲菜の記憶を思い出すのを手伝っていたレオは旧世界の暦を聞いてびっくりしていた。
「こっちじゃ八月なんて、ちょうど寒くなる時期だけどな」
ちなみに暦は違えども、春夏秋冬の概念は同じらしい。
「うん。八月は夏だよ。しかも温暖化でね、凄く暑くて。おまけに節電問題とかもあるし。でも私、エアコンは二十五度とかにしちゃうけど」
玲菜の言葉にはレオの知らない単語がいっぱい含まれている。
「オンダンカ? セツデン? エアコン?」
「うん。えーっとね、節電は電気を節約することなの。私の時代は電気いっぱい使ってるから、足りなくなっちゃうっていうかさ。エアコンは、暖かい風とか冷たい風を出す物でね。節電のために設定温度が……」
そこまで説明して、玲菜はふと思い出した。
(私、暑かったから設定温度を変えたな)
部屋の中に居て、エアコンをつけていたのになぜ暑かったのか。
(西日が? 西日がキツかったのかなぁ?)
夕方なのに、西日がきつくて暑かったような。
「どうした? 何か思い出したか?」
レオの質問に、玲菜は「う〜ん」と考える。
(夕方ではあるよね。五時? 五時半? 六時? ……さすがに六時の明るさではないかな)
「あ!!」
突如思い出す記憶。
「窓が開いてたんだ! だから暑くて。 私寝てた!! 小説書いてたんだけど、途中で寝てた!」
「暑くて起きたってことか?」
「うん」
いや、それだけではない。
「チャイム!」
そうだ、夢の中で鐘が聞こえて。
「チャイムだったんだ! 外で夕方のチャイムが鳴ったの! あれって四時? 五時?」
他にも音に関することでヒントがあった。
「違う! お父さん!!」
「え? なんで父親の話が?」
「うちのお父さんね、仕事が定時で終わる日にはいつも私にメールくれたの。早く帰れる日だから『何か買う物あるか』っていうメールをね」
「メール?」
またレオには分からない単語だったが、何か思い出せそうな玲菜は続ける。
「夕飯とかで、足りない物あったら買って帰るよっていうメールなんだけど。その日も確か定時で帰れる日だったはずなのに……」
何かが引っ掛かる。
「中々メールが来なくて、遅いなって」
いや、来なかったわけではない。
「来たんだ!」
「え?」
「メール!!」
メールが来て、携帯電話を取ろうとした矢先に真っ暗になった。
「そうだ! 結局メール見られなかったんだ!」
玲菜は大事なところを思い出してレオの手を掴んだ。
「レオ! 私、時計見たの!」
いつもなら五時十五分にはメールを寄越すのに、遅いと思って時計を見た。その時、思ったことがあったはずだ。
「もう、三十分も経ってるって思ったんだよ! だから……」
ぼんやりだが、時計の針が分かるような。
「五時四十五分だ! 多分」
今の彼女の、怒涛の思い出しにレオはボンヤリとし、玲菜本人も一瞬ボーッとした。
「え?」
自分で驚く。
「私、今、なんて言った?」
「何? 記憶が飛んだか? 五時四十五分だろ」
レオがつっこむともう一度頷く。
「そうだよ! うん。五時四十五分だったんだよ、小説が盗まれたのは!」
思い出した、と。玲菜は喜んだ。
「凄い! 思い出した! レオ、凄い!」
「俺が?」
「私が!」
玲菜は嬉しさのあまり、興奮して彼の上に乗っかった。
「うおっ!?」
予想外の大胆さに驚いたのはレオだ。
「だってホラ! 思い出したんだよ? 凄くない?」
彼女がこんなに興奮するなんて。自分の上に乗ってくるなんて。
以上の二点で彼の理性は吹っ飛びそうになり、危うく我を忘れてイロイロとしそうになったがどうにか堪えて抱きしめるだけにする。
「良かったな。すげーよ」
彼の腕に包まれて、玲菜はその胸に頭を乗せた。
「うん」
そっと目を閉じて手も胸に添える。
「レオ、心臓の音が聞こえるよ」
「当たり前だろ」
「凄く速いよ」
「当たり前だろ」
やはりもう駄目だ。他人の家だからどうした。彼女にキスをしてその続きもしてしまおう。
ちょうどレオの頭の中では本能が理性をぶっ飛ばしたところ。
玲菜がぼそりと言った。
「なんで私には使命があるのかなぁ?」
「え?」
「『創世神だから』って言われたら、そうなのかなって思っちゃうけど」
「ん?」
そもそもレオは『創世神』だの『使命』だのはあまり信じていない。ただ、彼女の話は信じることにしているが。
「なんでお前、創世神なんだっけ? 根拠は?」
そう訊かれたら。
「分からない。シドゥリさんに言われた。私の小説が神話になったからって。神話を基準に歴史が作られている世界だから、みたいなこと」
「まぁ、一理あるな」
レオも考えた。
「帝国なんて丸っきりそうだけど、他の国だって『伝説の剣と聖戦』の影響を受けて宗教とか成り立っている所が多いし。他の神話や宗教を信仰している国もあると思うけど、そういう所は小国が多くて、それこそ大国に攻められて改宗させられるし」
つまり帝国やナトラ・テミスのような大国に信仰される神話になった時点で、世界の歴史や生活にまで影響を及ぼしていると考えるのが妥当か。
きっと、今のこの時代には国も人口も昔(自分の時代)よりずっと少ないと予想できる。
それはそうと、玲菜は考えた。
(でも、小説が神話になった理由は小説が盗まれたからであって)
やはり、そこの疑問に行きつく。
「なんで私の小説、盗まれたんだろう? 最初に」
最初に盗んだ人物は一体……?
(分からない)
偶然か必然か。それとも?
(本当は、別の世界があったんじゃないの? 私の小説こそが、世界を変えちゃったんじゃないの?)
世界を壊さない為と言っているが、実は余計なことをしているのではないか。
たとえば、盗まなければ“元の世界”に戻る、とか。
(でもそしたら私、レオやショーンと出会えなくなる)
だがそれ自体はただの自己中心的な理由にしかならない。
「はぁ……」
玲菜はため息をつき、レオに話しかけた。
「ねぇ、レオ」
しかし返事はなく、代わりに寝息が聞こえる。
(え? 寝ちゃった?)
「レオ?」
目をつむっていて、やはり返事はない。
ただ、彼の腕は自分の背中に回されたままで幸せを感じる。
(温かい。このままこうしていたいな)
彼は、待っていてくれると言った。自分も戻ると宣言した。
(そうだ、私……)
それは父との決別を宣言したことになる。
とても悲しくて親不孝な選択。同時に罪悪感も残る。
(でも、私は)
玲菜は彼の唇にそっと口づけをする。
「後悔しないから」
彼の腕を離し、体を隣に移動させて布団を掛けた。
「信じて戻ってくるから、ずっと傍に居させてね」
そして手を繋ぎ、彼の横で眠りに就いた。
彼と一緒に眠ると、次の日は大抵静かで幸せなひとときからの目覚めを味わえるのだが、その日の朝は違った。
「……さま!! ……さま!?」
家の中で、大男のエドが叫ぶ声が聞こえて玲菜は目を覚ました。
なんて言っているのか最初は分からなかったが、意識が起きてくるとはっきりと聞こえてきた。
「シドゥリ様!!」
その名を呼ぶ声で玲菜は飛び起きた。
「え!?」
隣に寝ていたはずのレオはすでに起きていて、ベッドから降りている。彼に何事かと状況を訊ねた。
「レオ、今、エドさんの声が聞こえなかった?」
「俺も今聞こえたから」
彼は言う。
「預言者に何かあったのかもしれねーな」
二人の間に不安が過る。
昨日彼女は『自分の死期が近い』と言っていた。
「俺ちょっと、様子を見てくる」
シャツとズボン姿だった彼は部屋を後にしたが、玲菜も気になったのですぐに服を寝間着から着替えて後を追った。
シドゥリの部屋のドアは開いていて、中に入るとすぐにレオが居た。
ベッドの脇にはエドが。その近くにはショーンが。
肝心なシドゥリの様子が気になって玲菜も近付くと、エドが振り向いて言う。
「大丈夫です。シドゥリ様は今、眠りましたので」
ベッドを覗き込むと、確かに彼女は静かに眠っているよう。
「ど、どうしたんですか?」
玲菜が心配するとエドが皆に説明した。
「今朝、かなり具合が悪かったらしく、ちょっと前まで苦しがっていたのです。今はなんとか眠りましたが……」
彼は落ち着いたように話すが、恐らく内心は気が気ではない。俯き、少し息をついてから玲菜に話した。
「レイナ様。シドゥリ様は本日、結晶石に“術”を入れると仰っていましたが、起きるまで待っていただけますか? 或いは、夜になってしまうかもしれないのですが」
「え? あ、はい。私は大丈夫ですけど」
レオを見ると彼も頷く。
「俺も平気だ。一週間は時間作ったから。明日この家を出てもまぁ、間に合うだろ」
自分たちの時間はとりあえず平気そうだが、問題はそこではない。玲菜はもう一度シドゥリの方を見た。
「それより、シドゥリさんは大丈夫なんですか?」
エドは考えるようにしてから、きっぱりと告げる。
「大丈夫ではありません」
「え!?」
なんてことだ。
「じゃあ、病院に行くとか」
自分の感覚で心配した玲菜に首を振る。
「医者は必要ありません。シドゥリ様は、ご自分の寿命を受け入れていますから」
それでも三人が心配そうにしていると、エドは「今は大丈夫ですので」と別の部屋へ誘導する。
そこには食卓があり、食事の用意もしてあったので、彼に促されるまま朝食をとることになる。
食事が終わり、彼が片づけをしていると玲菜が気付いて自分も食器を持った。
「あ、片づけ手伝います! 美味しい料理、ごちそうさまでした」
「ありがとうございます。しかし大丈夫ですので、レイナ様はくつろいでいてください」
彼は三人をソファに座らせると、自分はサッと食卓の皿を片づけて、おまけに紅茶まで運んできた。
その仕事の速さにレオは感心する。
「お前、宮廷で働けるんじゃないか?」
「ありがとうございます」
三人に紅茶を注ぎ、自分も座って一息ついた。
「退屈かもしれませんがお待ちください。その間、何か質問があれば私の答えられる範囲でお話しします」
レオは「ふーん」と紅茶を飲み、「それならば」と一番の疑問を訊ねた。
「お前は何者だ? お前の正体を教えろ」
なんともはや不躾《ぶしつけ》な。だがしかし、レオ以外の二人も訊きたかったので耳を傾ける。
その質問が来るとは思わなかったらしいエドは苦笑いした。
「別に怪しい者ではございませんよ。長年森に住んでいたので感覚が普通とは違うかもしれませんが。この森でシドゥリ様と出会って、あの方の能力に魅入られて付き人をしている者です」
当然その答えではレオは納得いかなかったが、別の疑問が生じる。
「っていうかさ、シドゥリはどうしてこんな森の奥で住んでいるだろうな。不便だろ。樵《きこり》でさえこんな奥では暮さないぞ」
「そりゃあ、あれだろ」
ショーンが割り込んだ。
「予言なんて能力あったらいろんな人間に言い寄られて面倒くさくなるから、人里離れて隠れてんじゃねーの?」
エドは相槌を打った。
「そうですね。言い寄られるくらいならまだ良いのですが、シドゥリ様の能力や伴う物は狙われますから。それはもう、戦の原因になるほど」
そうかもしれない、と納得する三人。
「そしてあの方は、その戦のせいで家族や大事な方を亡くしました」
何か思うことがあるのか、ショーンは目を伏せた。
「そうだな。俺も友人を亡くした」
いつも彼は戦が早く終わるようにと頭を働かせるが、もちろん辛い経験がいっぱいあったに違いない。彼はかつて傭兵だったらしいから。恐らく仲間の死はたくさん見ている。
シドゥリが、大事な人を亡くした戦が自分の能力のせいだとしたらどんなに悲劇か、と玲菜は思ったが。真相はまた違った悲劇らしい。
「本当はあの方は、預言者になるはずではなかったと私は聞きました」
エドはシドゥリについて話す。
「あの方は、代々巫女の一族だったと聞きますが、その能力は受け継がれていくものだといいます」
玲菜も少し聞いた、大事な物を守ってきているという話――
*
シドゥリの先祖は巫女と呼ばれていたが、それは特殊な術を持っていたからだという。
かつて、戦争のために造られた兵器によって新しい人間・『亜人《ア=ヒト》』が生まれ、彼らが扱えた特殊能力……精霊術とも、魔法とも呼ばれた“力”に対し、封印する術――すなわち『封印術』と呼ばれる術がそれだ。
封印術はいわゆる修業などで習得するものではなく、術士が死ぬ時に別の人間へ受け継がせることによって備わる特別なものであり。ずっと一族の霊力の高い娘が選ばれて引き継がれていった。
そして同時に受け継がれていった物が『アヌーの腕輪』と呼ばれる物。時空を操る力を持つアヌーの宝石と、体内に魔力を持つ呪われた種族・ウォール人の秘宝『魔眼石』で作られた腕輪を組み合わせた代物で、様々なものが“視える”ようになる、この世の至宝。
つまり、そのアヌーの腕輪を腕に填めることで未来を予知し、“予言者”にもなれるという。
但し、あまりに強い呪力があるために、腕輪を填めると寿命や肉体、精神にとてつもない負担がかかる代償がある。
シドゥリの一族に受け継がれる『封印術』は、代償の呪いを抑える力が備わっている。よって、封印術を受け継いだ娘が必然的にアヌーの腕輪も受け継ぎ、視える能力を以《もっ》て世の権力者を支える“預言者”という存在になっていた。
そして……シドゥリは本来選ばれない予定だったのに、家族が戦に巻き込まれて亡くなったが為に術と腕輪を受け継ぎ、能力を得て預言者となったのだという。
*
「――それが今から二十一年前の話で。その時、シドゥリ様は十七歳だったそうです」
一瞬、「へぇ」と頷きそうになったが。ありえない事実に驚愕する。
「え!? じゃあ、今は三十八歳なんですか!?」
思わず大きな声で訊き返してしまった玲菜。
遅れてレオも仰天し、ショーンだけは知っていたかのように目を閉じた。
彼女の髪は白髪で……確かに声も若いし年齢不詳ではあるが。
「そうです。しかし、シドゥリ様はもう八十代後半のお体」
そこに、恐ろしい現実が在った。
「封印術の力を以てしても、“力”を使う度に寿命が奪われていきます」
あまりに衝撃的すぎて残酷な犠牲に玲菜は口を押さえた。
彼女は腕輪を填めて能力を得ただけで『両目が朽ちる』という代償を受けていたのに。
「今でもシドゥリ様の能力やアヌーの腕輪は、本質を知らない者たちに狙われていますが、あの方は自分以降に誰かが受け継ぐことを望んではいません。なので、見つからないようひっそりとこの森の奥に」
巫女の一族は自分の代で終わらすと、彼女は言っているらしい。
エドの話を聞いた三人はしばらく無言で各々考え事をしていた。
その内にエドは掃除などを始めて、ショーンは煙草を吸いに外へ出た。玲菜とレオは、シドゥリが目覚めるまでまったりと部屋の中で過ごし、一緒に居られる時間を大事にする。
玲菜が使命を実行するまでおよそ一ヶ月あるとして。けれど、レオはまた更に忙しくなるので離れ離れになってしまう。
森の家の時間は静かにゆっくりと経ち、その間に玲菜は2012年のブルームーンの日が八月三十一日だったと思い出していた。
そして……
夕刻になった頃、ようやくシドゥリが一度目を覚ました。目を覚ましたと言っても両目は包帯を巻いているので分かりづらいが、僅かな声でエドを呼ぶ。
「エド……居ますか?」
「はい、シドゥリ様」
彼は傍の椅子に座り、彼女の目覚めを待っていたので、すぐに立ち上がって近付く。
「皆さんをこちらへ。アヌーの力を操る術を結晶石に施します」
いよいよだと、エドは止めたい気持ちを押し殺して返事をした。
「はい。分かりました」
“力”を使うと彼女の寿命は奪われ、恐らくこれが最期の術になる。
そしてそれは預言者の死を意味することであり。
エドに呼ばれてシドゥリの部屋に来た三人も、先ほど聞いた話で“それ”は分かり、玲菜が心配して彼女を止める。
「シドゥリさん、エドさんから話は聞きました。術をやったらシドゥリさんの命が危ないです! やめてください」
「やめるわけにはいきません。運命を変えるわけには……」
シドゥリはエドに支えながら上体を起こす。
「これが私の使命であり、寿命でもあります。どうか最期まで全《まっと》うさせてください」
彼女はもう覚悟を決めていて、ショーンに言った。
「ショーン、もう一度、アヌーの結晶石を貸してください」
「シドゥリ……」
「今から、“シドゥリの力”でアヌーを呼び覚まします」
以前、玲菜も少し聞いたことがある。彼女の名はシドゥリではない、と。アヌーの力を操る人物こそが“シドゥリ”と呼ばれる、と。
ショーンは、玲菜が止めるのも聞かずにアヌーの結晶石をシドゥリに手渡した。これが彼女の望みだと知っていたために。
エドも同じく。止めようとする玲菜を制する。
「術が失敗しないよう、静かにしてください。術が失敗しても寿命は取られてしまいます。そしたらシドゥリ様は望まぬ死を迎えてしまいます」
あまりにも切なく真剣な眼に、玲菜は止めるのをやめた。
「シドゥリさん……」
「使命が終わったら、後はエドにすべて任せているので。困ったら彼を訪ねてください」
彼女は重々しい石の腕輪を填めた自分の腕を出して、結晶石に乗せた。
「ショーン、頼みたいことがあります」
「ん?」
「私が死ぬ時、この腕輪は外れますが、どうかアヌーの腕輪をお願いします」
人々に狙われるというアヌーの腕輪。
「決して貴方は腕輪を填めぬよう。そして、頼めるのは貴方しかいません」
エドではなく、ショーンにと彼女は言う。
「ああ……分かった」
「どうか……」
そう言って、シドゥリは何かを唱え始めた。
聞きとれる言葉ではなく、恐らく呪文。
静かに息を呑んで皆が待っていると、やがてアヌーの腕輪の宝石部分が薄らと青く光り始めた。
「レイナさん、教えてください。貴女が時空の渦に入り込んだ年月日と時間を」
「は、はい」
玲菜はシドゥリに近付いて戸惑いながら伝えた。
「あの、旧世界……っていうのは、わかりますよね? 西暦2012年の八月三十一日。五時……いえ、十七時四十五分です」
何度も記憶を確かめた。恐らく合っているはず、と。
「ありがとうございます」
シドゥリはまた呪文を唱え始めて、アヌーの腕輪の宝石部分は更に光る。
『空に眠る父なるアヌーよ! 今一度暫し眠りから鼓動を醒まし、我の声に耳を傾けたまえ』
アヌーの腕輪の宝石から出た青い光はそのまま結晶石に入り、吸い込まれるように消えた。
「ふぅ」
シドゥリはため息をつくと結晶石をショーンに渡す。
彼女がまたベッドに倒れこんだのはそのすぐ後。
息を切らしてどっと汗をかき、苦しそうにする。
「シドゥリ様!」
「シドゥリさん!」
「シドゥリ」
皆が彼女の名を“シドゥリ”と呼ぶ中、ショーンだけは彼女の手を掴んでこう呼んだ。
「アルテミス……!」
その名に聞き覚えがあり、玲菜とレオはすぐにショーンの方を見た。
偶然か?
いや、それよりも彼女の(恐らく)本名をショーンが知っているなんて。様々な疑問が生じたが今はそれどころではなく。
「ショーン……貴方だけです。過去の……私を……知っている…のは……」
シドゥリはそう言った後、ショーンだけに聞こえるように何かを伝えた。
「……それは、つまり? アルテミス」
「貴方の、思う通りに……」
シドゥリ――いや、アルテミスは力を無くしたように息を引き取る。口元は静かに頬笑むように。
エドが石の腕輪を持つと今まで外れなかったのが嘘みたいに簡単に外れた。
彼女の遺言通り、ショーンにアヌーの腕輪を手渡す。
「ショーン様、お願いします」
「ああ」
受け取ったショーンは自身の鞄の中に腕輪を入れるために部屋を出る。
落ち込むエドと泣いている玲菜を残して、レオは部屋を出たショーンの後をついていった。
別の部屋では自由にさせているウヅキが居て、皆の荷物もあり。ショーンはすり寄るウヅキの頭を撫でた後に自分の鞄を開ける。腕輪をしまいながら、後ろに立つレオに話しかけた。
「レイナは?」
「泣いてる」
「そうか。……ショックだよな、やっぱ」
アヌーの結晶石も鞄にしまうショーンに、レオは気になったことを訊く。
「オヤジはショックじゃないのか?」
「もちろん、ショックだし悲しいよ。シドゥリのことは昔から知っているし」
「シドゥリじゃないだろ? アルテミスなんだろ? ホントは」
玲菜はきっと、この国のことをまだしっかりと把握していないからその名にそこまで疑問を感じない。
「そうだよ。彼女の名はアルテミスという」
だが、レオは違った。
「この国を創った女神と同じ名前? どういうことなんだ」
神話の登場人物の名は、よく、洗礼名としてや貴族が使っていたが、アルテミスだけは畏れ多いとされて使われることはなかった。
「しかもあのエドでも知らなかったっぽい名前を、どうしてオヤジが知っているんだ? オヤジは昔、傭兵の頃にこの森に迷い込んだことがあるって言ってたな?」
「お前にしてはよく憶えてんじゃねーか」
ショーンは部屋の周りを見回す。
憶えていたのはレオではなく、恐らく……
「いいから、ちゃんと答えろ! オヤジは、十七歳の頃って言ってたんだよ。それって今から三十……三十四年前? だろ? しかもその時に、魔術師の家へ来たと言っていたぞ。シドゥリにも会った風な感じだったし」
しかし計算するとその頃シドゥリは四歳となってしまう。四歳ではいくらなんでも預言者ではない。
「それって、この家のアルテミスとは違うシドゥリ? 一体、シドゥ…いや、アルテミスとオヤジはどういう関係だ!」
鞄にしまい終わったショーンは立ち上がり、振り向く。
じっと彼を見つめて困ったように口を開いた。
「信じられねーかもしれないけど、アルテミスはな、俺の友人の……」
――その時、静かな森に騒がしい馬の蹄の音が響き渡る。
数は数頭ではなく十数頭か。
何者かの集団がこの家に近付いたらしい気配だった。
まさか盗賊ではあるまいし。
明らかに嫌な予感。
「こんな時に来客かよ」
レオはため息をついて自分の荷物から刀やシリウスの剣を出す。短刀は護身用にいつも身に付けていたが、きっとそれでどうにかなるレベルではないと悟って。
ショーンも焦る様子もなく頭を押さえる。
「何が狙いだ。お前の命か? アヌーの腕輪か?」
「両方だろ。悪いな、巻き込んで」
訊きたいことがまだいっぱいあったのに。一先ず邪魔者を片づけなくてはならない。
自分も剣を出したショーンは苦笑いで返事をした。
「いつものことだ。お前が悪いんじゃない」
「オヤジはここで、レイナを守ってくれよ。俺は俺の護衛と一緒に外で戦うから。中に侵入させないように」
護衛と言うのは無論、朱音や黒竜のこと。
レオが出ていこうとするとシドゥリの部屋からエドがでかい槍を持って出てきた。
「私も行きます」
見た目的には頼もしい助っ人に視える。
「分かった。まさかとは思うけど、見かけ倒しじゃないだろうな」
レオはでかい槍を見て笑い、エドを連れて外へ出ていった。